科学エッセー(32)暑さとの戦い東京五輪のマラソン(下)

1)体内の水分負債や塩化ナトリウム減少の防止策

一般にマラソンのレース中の発汗量は約500~1,000ml・h-1である.

身体の水分不足を補うために約400~800ml・h-1の水を補充しなければならない(Coyle,2004).

胃腸から吸収できる水分量は安静時には約25ml・min-1であるが,レース中は胃腸の働きが低下するため,吸収される水分量はそれよりもはるかに少ない.

そのため25℃を超えるような高温の場合には発汗で失った水分を完全に補うことは難しい.

もし,レース当日に高温(25℃以上)が予想される場合にはスタート30分前に約400mlの水分を摂っておかなければならない.

 

実際にマラソンランナーが走行中に摂る水分量は意外に少ない.

にもかかわらず水分不足を自覚しないのは,グリコーゲンが分解される過程でグリコーゲンに含まれる水分(約2L)が利用されるからである(Noakes,1992).

 

レース中に失われた塩化ナトリウムやエネルギー源は水との混合液として補充する.

例えば,炭水化物(グルコース、麦芽デキストリン,多種類のデンプンなど)は水との混合液(6~8%)で補充する(Murray et al, 1989).

マラソンレースで7%の炭水化物-電解質の飲料水に5%のグルコース重合体+2%のフルクトース+9.7mmol・L-1 のNa+とCL-1,および5mmol・L-1のカリウムイオン(K+)を加えた混合液を飲ませた場合(1回目)と,コントロールとして1回目の混合液と見分けがつかない水だけを飲ませる(2回目)Millard-Stafford et al(1992)の実験では,1回目の混合液と2回目の水摂取の場合の体温調節や循環機能に差が認められないが,レース最後の5㎞のスプリットタイムでは混合液(21.9分)は水だけ(24.2分)よりも有意に速い.

 

従って,水だけよりも混合液が有効であるとみなした.

そして,仮に25~30℃の環境下で65% VO2maxのスピードを維持するためには,50g・h-1の炭水化物を含む混合液をレース中少なくとも800ml・h-1以上摂取すべきであると結論した.

 

高温下のマラソンレースでは発汗による多量の水分喪失によって,細胞外液や血漿中のナトリウム濃度が高くなり,細胞内と細胞外の濃度にアンバランスが生じて筋肉の収縮力が弱まりけいれんを引き起こしやすくなる.

体内には2,000~2,500mmol・L-1(約50~60g)のナトリウムが貯蓄されており,マラソンレースで失われるのはその約10%と量的にはそれほど大きくない.しかし,ナトリウム分布のアンバランスや血漿中のナトリウム不足は糖分の代謝を遅らせる.

 

その一方で,一般市民ランナーに散見するエイドステーションでの多量の水分摂取は体液の相対的なナトリウム不足を招き,低ナトリウム血症を招く恐れがある(Noakes et al,1985).

そのためにも20~40mmol・L-1のナトリウムを含む水溶液の摂取が望まれる(Coyle,2004).

 

2)マラソンレースに備えたランナーのための熱順化

マラソンランナーの暑さ対策には,①レースが予想される高温環境下に一定期間居住する,②レースの気温に関係なく涼しい場所で走力を高める,③暑い環境の中でトレーニングを行い暑さに馴れるなど,あらかじめ熱耐性能力(暑さに対する適応力や抵抗力)を鍛える,などがある.

 

Shavartz et al(1977)は,①トレーニング者の熱耐性能力は非トレーニング者に比べ優れている,②熱耐性能力の適応(復元力)は競技力が高い者ほど早い,③熱耐性能力向上に最適なトレーニング法はインターバルトレーニングである,④暑さに対する体温(直腸温)の高まりとVO2maxとの間に反比例が生じる.

すなわち,競技力が高い者は熱耐性能力も高い.Strydom et al(1966)によると,熱い環境下で4~5日トレーニングを行うと,一定の強度の運動時の直腸温や心拍数が低下する.

 

さらに,トレーニングを開始して10日頃には発汗量に定常状態が現れる.

従って,高温下のトレーニングによる熱順化に必要なトレーニング日数は少なくとも10日以上が必要である,と述べている.

 

これらの結果から,高温下でマラソンレースが行われる場合には,先に高所などの涼しい環境下で走力を高め,レース10~14日前に下山してテーパリングやピーキング実施中に暑さへの適応を図ることが望ましい.

 

3)まとめ

科学的実験で得られた知見は被験者の平均的結果を示しているので,得られた科学的知見のすべてがランナーに適応するとは限らない.

特に,暑さに対する適応能力は先天的能力と生まれ育った環境の影響を強く受ける.

暑さに対する適応能を複雑にするのは,レース当日の体調や精神状態などの諸条件の影響を受けるためである.

 

従って,科学的知見の上に種々のケースを想定して,気象条件や水分量だけでなく混合液の種類や量(濃度)など繰り返し試行を行い,選手自身の体調と気象条件を主観的に総合判断できるまで感性を高めていなければならない.

さらに,スタート後は変化する気象条件と体調を鑑みペースを柔軟に修正しながらベストを尽くすことが大切である.

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山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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