科学エッセー(31)暑さとの戦い東京五輪のマラソン(上)

1980年頃から五輪や世界選手権大会が真夏開催に定着したことによって,マラソン,競歩,自転車等のロードレースは「記録」よりも「順位」の争いになった.

換言すれば,これらのロードレースは“暑さとの勝負”となった.

それだけ,暑さ対策は重要な課題である.

1)マラソンに影響する暑さとは

マラソンを完走するためには約2000~3000Calのエネルギーが必要である.

その全熱量の1/4がランニングの推進力を高めるために使われ,残りの3/4が体外に放出されなければならない(Noakes,2003).

もし,残りの3/4の熱が体内に蓄積されると仮定すると,体温は1分間に0.2℃ずつ高まり,マラソンを2時間10分で走る時には,体温は安静時から26℃上昇することになる(Maughan,1984).

いかに人体の体温調節機構・機能が優れものであるか,また,マラソンを完走するためには熱放散能がいかに大切かを物語っている.

 

では,外界から受ける熱の中で何が一番マラソンの記録に影響するのであろうか.

Vihma(2010)は,1980~2008年までのストックホルムマラソンの記録から男子を1~3位,1~250位,1,001位~1,250位,4,001位~4250位の4グループ,女子を1~3位,1~250位,1,001位~1,250位の3グループに分け,各グループ間の気象条件(気温,相対・絶対湿度,風速,太陽の短波輻射と熱の長波輻射,天気)と記録への影響の強さを調べた結果,男女に関係なく最も気温(r=0.66~0.73)と密接な関係があることを明らかにした.

 

すなわち,湿度や輻射熱よりも気温が最も記録に影響すると結論した.

しかし,この実験では高温に湿度が加えられると相乗作用によってその影響力は倍増する.

東アフリカの選手は、祖先から熱帯の高温で輻射熱が高い高所で何百万年も生活してきたことから,乾いた高温にはめっぽう強い.

しかし,高温多湿環境には不慣れであることから,レース当日の気象条件によっては日本選手にも勝つチャンスがある.

 

2)人体の体温調節のメカニズム

夏のマラソンレースではスタートしてしばらくすると,①筋温は徐々に高まり5~10km走ると筋肉内のエネルギー発生効率が最も高い約39℃に高まる.

②筋温や血液の温度が上昇し始めると心拍出量や心拍数等が高まり,皮膚表面の血管が拡張し血流量が多くなる.

すなわち,皮膚表面と外気との対流による熱放散が促進する.

それでも,熱産生に熱放散が追い付かないと,③発汗を促し熱放散が促進する.

すなわち,皮膚表面の水分が気化して熱放散を促進する.

さらに,④発汗量が最高度に高まっても熱産生量が熱放散量を上まわり体温が上昇し続けると,体内の水分保有量が少なくなり血液粘性と血流抵抗が高まる(Armstrong et al,1985).

 

このことは,活動筋へのO2供給量(VO2maxや% VO2max)の低下(Nybo et al,2001)や,体内の酸素運搬系の経済性の低下に影響し(Coyle and Gonzalez-Alonso,2001),ランニングペースは低下を余儀なくされる.

一般に,ペース低下が顕著になるターニングポイントは体重が2~3%減少した時である.しかし,暑さに対する発汗量は個人差が著しく大きい.

 

3)暑さに対する発汗量の推定の難しさ

暑さに対する個人差が著しいことは、古くから認められている(Balke and Larrbee,1903).

クレイトンの世界記録を12年ぶりに更新したアメリカのサラザールは、暑さに特に弱いことで有名であった.1984年のロス五輪に備えて暑さ対策のための“チームサラザール”が結成された.

このチームはランニングのペースや環境条件とサラザール自身の熱反応特性を綿密に調査した上で,体重の3%減までは暑さのペースへの影響が少ないと判断した.

 

体重の3%減少の目標を達成するためにはレース中の水分摂取量は2.79L・h-1でなければならないと推測したが,予想に反して発汗量がそれよりも33%多くなり失敗に終わった.

予想が外れた原因は実験時の状態とレース当日の選手の体調(睡眠不足,疲れなど)や精神的ストレスなどを定量化し,それを正確に推定できなかった点を挙げている(Armstrong et al,1986).

 

また,1991年に東京で開催された世界陸上競技選手権で暑さ対策を行ったスペンス選手はレース当日の気温(20℃→26℃)や湿度(30%→73%)が高かったにもかかわらず,レース中に柔軟にペースを修正して銅メダルを獲得したという例もある(Martin,2007).

 

レース当日の発汗量と摂取する水分量は個人差が大きい.

個人差だけでなくレース当日の身体的調子や気象条件(気温だけでなく湿度,風向・風速,輻射熱,天気等)等も影響する.

サラザールの場合には予想に反して発汗量が多くなったが,対策の方向性には誤りがないと思われる.

従って,五輪では代表選手個々人の水分摂取能と熱放散能をあらかじめ究明し,レース当日に予想される気象条件ごとの発汗量と水分摂取量を正確に推定するかが勝負の別れ目になると考えられる.

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山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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