陸上競技のルーツをさぐる46

「三段跳」の歴史<そのⅤ>

女子の「三段跳」

「走幅跳」はともかく、跳躍のたびに衝撃を大きく受ける「三段跳」に女子が挑戦することは「無理だ」と言われてきました。

19世紀末から1920年代にかけての女子陸上競技黎明期を詳述した1930年のF・ウエブスター氏『女子陸上競技(Athletics of Today for Women)』には「女子三段跳」に関する章や記述は全くありません。

 

わずかに末尾に記載されている「世界記録」を載せた一覧表に、当時の「国際女子スポーツ連盟(FSFI)」が1927年にA・シャナーという選手が出した34フィート3インチ3/4(10m43)を、「特別種目」の記録を公認しているのがみられる程度で、欧米各国ではあまり活発に行われてこなかったことを物語っています。

 

当時は欧米であまり行われていなかった女子「三段跳」でしたが、日本では盛んに行われていたことが様々な資料から読み取る事ができます。

1920年代のわが国女子陸上競技界のスーパースター、人見絹枝選手の伝記や人物伝を読むと、岡山県立女学校生時代の1923(大正13)年頃、テニスとともに「走幅跳」や「三段跳」の練習をしていたとの記述が見られます。

 

24(大正13)年6月15日に大阪市立運動場で行われた「第1回日本女子オリンピック大会」では、岡山春霞の塀和房子選手が9m62で優勝した記録が見られます。

東京二階堂体操塾に在学中の人見選手が同年、岡山での「第5回県陸上競技大会」で、スタイン選手(米国)が持つ10m32を1cm上回る10m33の「世界記録」樹立したことが記述されています。

 

さらに、24年10月30日~11月3日に新装なった明治神宮外苑競技場<現在建設中の新国立競技場の2代前の競技場>で行われた「第1回明治神宮競技大会」には、男子19種目に加え、女子の「三段跳」が、50m、100m、4×100mRとともに行われました。

優勝は北島みき子選手(静岡・森町実高女)の10m07。この大会には、すでに「世界記録」に相当する記録保持者の人見選手は出場していません。

「第1回大会」に「三段跳」がなぜ女子唯一のフィールド種目に選ばれたのかは定かではありません。

当時の状況からすると、同年の7月のパリ五輪で織田幹雄選手が日本の選手として初めて6位入賞を果たしたことが影響しているのではないかと推測されます。

 

上述のウエブスター氏の著書には、「世界女子大会」などの国際的な競技会で多くの種目において大活躍する人見選手の様子が10枚におよぶ写真入りで詳述されているにもかかわらず、「三段跳」の記録は紹介されていません。

「国際女子スポーツ連盟」も人見選手の記録より劣る古い記録しか登録・掲載していません。

 

翌年の25年「第2回神宮大会」大阪予選会では、人見選手は11m625の世界的な大記録を樹立。

11月1日からの本大会でも11m355を跳んで圧勝しました。

 

この頃の「日本陸上競技選手権大会」に女子種目が正式に登場してくるのは、これと軌を一にする25(大正14)年11月の「第12回大会」からです。

この中で、当時欧米諸国でほとんどおこなわれていない「女子三段跳」が実施され、沢地節子選手(千葉・松戸高女)が、9m61で優勝しました。

 

以後、36(昭和11)年の「第23回」まで続けられたものの、この間、「世界記録保持者」の人見選手は病に倒れたのち、30(昭和5)年8月、泉下に旅立たれたため出場はありませんでした。

その後に11mを超える選手は数名あったものの、人見選手を上回る選手が出ないまま、陸上界から姿を消すことになりました。

 

五輪大会への女子種目登場と「三段跳」

五輪への女子種目採用は1928(昭和3)年のアムステルダム五輪からで、IOCやFSFIなどでの厳しい議論の末に5種目の限定ながら認められました。

しかし、当時から女性の身体への負担や衝撃が大きいとの医学界からの指摘があって第二次大戦後も採用されず、国際的な競技会でも長期間にわたって見ることがなかったのです。

 

1990年代には棒高跳などとともに再登場

近年では「女性の身体が男性に比べて弱いものではなく、競技会に向かって日常的に練習を行うことでより強健になっていく」という考え方が大勢を占めるようになり、「棒高跳」や「ハンマー投」などと同様に公式種目として積極的に登場させようとの機運が高まりました。

「国際陸連」は91年度から「三段跳」を公認種目とし、93年の第4回世界選手権シュツットガルト大会で初登場させました。

95年の第5回イエーテボリ大会ではI・クラべツ(ウクライナ)が15m50をマークし、戦前の日本男子選手の記録に匹敵する「女子世界記録」を樹立して満員の観衆を沸かせました。

 

一方、「日本陸連」では87年度から砂場から踏切板までの距離を9mとし、この前年の86年11月に城戸律子選手(新日鐡)が出した12m23を日本最高記録として公認し、再出発しました。

この間、記録の向上によって91年からは砂場~踏切板の距離を10mとする規則変更を実施。

99年10月に花岡麻帆選手(三英社)が樹立した14m04の日本記録は20年間破られていません。

<以下次号>

写真の説明と出典

  • 「1996年の「アトランタ五輪」に初登場した「女子三段跳」に、前年の「世界選手権」にも優勝したI・クラベツ(ウクライナ)が、「金メダル」を獲得、初代女王となった。『アトランタ・オリンピック総集編(アサヒグラフ)』(1996)p76(朝日新聞社編)
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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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