エッセー(7)歩と走

姿勢には,①横位,②座位,立位がある.その中で最も安定した姿勢は横位,最も不安定な姿勢は立位である.

姿勢からみたヒトの安定性の相違は床や大地との接触面積と重心の位置にある.

例えば立位の場合、足の接地面は体表面積の約1%に過ぎず,重心も高いことから不安定である.

すなわち,横位と座位は“静”を前提にしているのに対して,立位は“動”を前提にした姿勢である.

歩や走は動作を起こす際安定であると敏速な動作ができないだけでなく,歩いたり走ったりする時の消費エネルギー量が多くなる.

 

例えば,短距離走のスタートを早く行うためには不安定でなければならない.

ルールではピストルがなるまで静止していなければならないことから,スタートの姿勢は安定と不安定の極限を追求した姿勢と言える.

さらに,効率的な走りを続けるためには進行方向に対して安定と不安定の極限の走姿(重心の位置,着地の仕方,腕の振り方,状態の姿勢など)が維持されなければならない.

走の重心の高低差が大きいのに対して,歩の重心の高低差は小さいことから衝撃が少なく安定し,それだけ速度は遅い.

 

イギリスのことわざに,「走ることができるようになる前に,歩くことを学ばなければならない」と言う言葉がある.

その真意は,“物事は一歩一歩着実に”である.

額面通りに解釈すれば,容易さの順序を示し,歩くことができて初めて走ることができる,すなわち,歩く動きが走る動きよりも容易であることと示唆している.

 

ハーバード大学のブラングルとリーバーマンは,2004年の国際科学雑誌ネイチヤーに約600万年前にヒトはチンパンジーと共通の祖先から枝分かれし,直立二足歩・走行が可能になったことが今日の文明社会を築く礎になったと述べている.

1871年にダーウィンが「人類が類人猿とたもとを分けたのは大きな脳でも,言葉でも,道具の使用でもなく,二足歩行である」と述べたが,なぜ二足歩行が自然選択で有利になったかを説明していなかった.その後多くの人類学者は大きな脳こそが人類の進化を高めたと考えてきた.

これに対してこの論文は,ヒトが二足歩行・走行が出来たことが進化を大幅に進める原動力になったことを論証した.

 

人類学者のリーバーマンはヒトの大脳と走る能力の進化を追究し,2013年には『人体600万年史 上・下』を発刊した.

その中で,直立二足歩行が,①果実の取集と取集した果実を運ぶのを容易にしたこと,②チンパンジーの歩行(ナックル歩行)に比べ消費エネルギーを約1/4に減少させ効率的な歩行が可能になったこと,これらのことが③ヒトの行動範囲を広げ,合わせて多くの情報が得られるようになり,集団行動を可能にすることによって食料の獲得を容易にした.

 

初期の人類は狩猟と木の実の採集に依存し,道具がないために効率の良い歩・走を生かした持久的狩猟を行っていた.

獰猛な肉食獣を避けながら草食動物の追跡と追走を繰り返し,歩行や走行の効率の悪い4つ脚動物が直射日光を受け易く体温調節機構の未発達のために熱射病で倒れるまで追い求め捕獲したことを進化生物学的に論証した.

この太古の人類生誕の舞台こそが現在のケニアやエチオピアの熱帯の高原地帯に他ならない.

なぜ国際的に優れたマラソンランナーの多くがこれらの国々から輩出されたかを説明するものである.

 

ヒトの普段の歩行では,歩幅は身長×0.37 cm,少し速めた速歩(ウォーキング)では身長×0.45 cmである.例えば,身長が160 cmの者の歩幅は約60 cm と72 cmとなる.

歩行に使われるエネルギー量は体重と密接な関係があることから,歩行時の歩幅が72 cmと仮定すると,体重1kg 当たりの1分間の消費カロリーは約0.1 kcalとなる.従って,体重60kgの者が60分間のウォーキングを行う際のエネルギー消費量は60 kg× 0.1 Cal/分×60分=360 Cal,となる.

 

最も遅いスピードから最も速いスピードまでのスピードの高まりによる歩と走のエネルギー消費量の曲線は歩がJ字カーブを,走はS字カーブを描く.両カーブが交わるのは時速が約7㎞/hr(約120 m/min)である.

故田中宏暁(元福岡大教授)が唱えたスロージョギングの“スロー”とは歩行スピードの消費エネルギー量よりも走行スピードの消費エネルギー量が高くなる,すなわち,約120 m/min以下のスピードで走ることを推奨したのである.その理由を十分説明しないで逝ってしまった.残念である.

 

歩く,走る,座る,寝ると言った原始的動作には文化によって異なるスタイルが見出される.

アメリカの博物学者マルセール・モースはこれを“身体技法”と呼び,姿勢・動き・運動などの民族的相違を明らかにした.わが日本人の歩・走の姿勢(表現する身体)は文化や科学技術の発展と共に進化し,また,スポーツにみられる歩・走の技術(技術としての身体)はより美しく・力強く・合理的になってきた.

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山地 啓司

山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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