陸上競技のルーツをさぐる13

障害物競走とハードル競走の歴史<そのⅦ>

ハードル・クリアランスの技術向上の足跡

前回までに述べたように、19世紀末までに行われていた競技場内での「ハードル競走」は、木製の頑丈なハードルをトラックやフィールド内に埋め込んで行っていました。選手がぶつかってもハードルは倒れず負傷者が続出したため、今日のように触れるか触れないかぎりぎりで飛び越すことよりも、安全に飛び越すことが最優先でした。このため「10回の走高跳」をするようなハードリングになっていました。この頃のハードル競走の図版や写真を見ると、ハードル上で両手を「バンザイ型」にしながら前脚を内側に曲げ、踏切脚も臀部の内側に曲げる「あぐら座り」をしている飛び越し方だったことが分かります。この方法では両足がほぼ同時に着地してスピードが殺され、10ヤードのインターバルを改めて走り始めることになる。スピードのない当時の選手たちはインターバルを5歩で走るのが普通で、記録は17秒近くを要していました。

このような「ハードル・クリアランス技術」に一大革命をもたらしたのは、米国・ペンシルバニア大の学生、A・クレンツレーン選手でした。長身で短距離走の能力も高く、走幅跳でも一流選手で1900年パリ五輪では60m競走、走幅跳と200mHと110mHの4種目に金メダルを獲得。ハードルレースでは前脚を真直ぐに伸ばし、踏切った脚は後方に直角に曲げる今日の基礎を築く技術を披露して、インターバルを3歩で走り切り、1898年には15秒2の世界最高記録を樹立しました。

その後、彼のハードリング技術を改良し、ハードル上で上体を前傾しながら飛び越し、着地時の前脚に体重を十分に乗せて後脚を直角に曲げ、腰を中心にクリアランスをすることによってハードル上でも疾走スピードを殺さない技術が生み出されました。選手たちの疾走能力も飛躍的に伸び、1916年には世界記録は14秒台に入り、36年には13秒台に突入しました。81年には米国のR・ニアマイア選手が12秒93で走って、ついに12秒台の争いになっているのです。

200mHの変遷史

この種目は、200mまたは220ヤード(=201.08m)に2フィート半(=76.2cm)の低いハードルを20ヤードごとに10台置いて競技する種目です。英国ではすでに1864年の「第1回オ大対ケ大対校戦」で行われた記録が残っているものの、なぜか1911年の「全英選手権(AAA)」で復活するまでは行われませんでした。1864年の26秒3/4が記録として残っていますが、当時としては相当優秀なものだったと思われます。

米・仏・瑞典(スウェーデン)など欧州の競技会で盛んに行われていたことから、1900年パリ五輪、1904年セントルイス五輪で実施されましたが、以後は今日に連なる400mHの方に人気が出て行われなくなりました。

しかし、米国では、とくに学生選手権やジュニア向けの種目として、また短距離疾走時に一定のストライドで走り切る能力をつける目的で採用され、大変人気のある種目でした。

わが国でも戦前の旧制中学・高等学校大会の人気種目であり、戦後も1970(昭和45)年から、国際的な種目としての400mHにシフトしようとの論議から、インターハイで廃止されて行われなくなりました。現在65才以上の競技経験者の中には、大会出場の思い出のある方もおられるのではないでしょうか。

400mHの変遷史

この種目は、400mまたは440ヤード(=402.16m)に3フィート(=91.4cm)のハードルを10台置いて飛び越す競技ですが、他の男子ハードル種目とは違って近代五輪が開催されて以降に生まれた競技種目です。古くは1860年の「オ大」の学内大会で440ヤードに12台のハードルを置いて競技を行った形跡が見られますが、その後は長く行われなかった。しかし、110mHが定着し、2マイルSC(=約3200m)が野外の競走の変形として競技場内のレースに導入されてきたことに伴い、2マイルSCのような種目をもう少し短い距離で行おうとの考えから、1900年のパリ五輪で実施されるに至りました。

この大会に57秒6で優勝し、金メダルを得た米国のW・チュクシュバリュー選手は、「この種目の決勝は、10人が同時にオープン・コースで走った。障害物は柴で作った箱の上に、直径6~8インチ(=約20cm)、長さ30フィート(=約9m)の電信柱を置いて作ったものを置き、最後のハードルからゴールまでの中間点には、幅5mの水濠が設置され、今のハードル競走とは程遠いものであった」と回想しています。

1904年セントルイス五輪では、今日の女子のハードルで使っている2フィート半のハードルを10台並べて実施。次の08年ロンドン五輪からは現在と同様、セパレートコースに3フィートのハードルを置いて行うようになりました。また、この種目はフランスでは1893年から国内選手権大会で実施されていたため、他の多くの種目が英国起源であるのとは異なり、パリ五輪を機にフランス主導で行われてきました。440ヤードであった距離を「メートル制」の400mに修正したため、もとは40ヤード(=36.56m)だったインターバルは、スタートから1台目までを45m、他のハードル間は35m、10台目からゴールまでは40mに作り変えられています。

(以下次号)

写真図版の説明と出典

①「1920年当時に14秒8の世界記録を出してアンとワープ五輪で優勝したE・トムソン選手(米)のハードリングの合成写真」

『Athletics of Today―History Development &Training―』(1929)F・A・M・Webster著 P128 (Fredeirick Warne  & Co. Led.)

②「1895年の全米学生選手権の直線コースで行った200mHの様子」

『Track Athletics in Detail』(1896 )Harper’s Round Table全書編 P37

(Harper & Brothers Publishers社)

③「220ヤードH(直線コース)で学生時代のJ・オ―エンス選手(米)は22秒6の記録を樹立」

『The Guinness Book of Athletics Fact & Feats』(1982) P・Matthews著

表紙裏の写真( Guinness Superlataves Limited )

④「アムステルダム五輪の400mH(53秒4)で優勝したバークレー卿(英)<1946~76年、国際陸連(IAAF)会長をつとめた.」

『Modern Athletic―by the Achiles Club―』(1958)  H.A.Meyer 編 P18(Oxford University  H. Marshall)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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