エッセー(5)古くて新しい呼吸の話
スポーツ科学の進展に伴って,昔から実践していたことが全く不合理な行為として指摘されることがある.例えば「スポーツを行っている時は暑くても水を飲むな」や「野球選手は肩を冷やすから泳ぐな」である.同じことが呼吸機能にもある.かつて「呼吸筋(肺換気量:VE)は全身持久性の制限因子とはならない」と考えられていた.なぜなら,運動強度を高めていくと酸素摂取量(VO2)や心拍数(HR)はあるスピードに達すると徐々に増加率が低下しやがて定常状態に達する.しかし,VEだけはVO2やHRに定常状態が現れ始めてもなお指数関数的に増加する.そのため, VEにはその時点でまだ十分余裕があるとみなされた.
ところが1990年代に入ると,アメリカのウィスコンシン大学のDr. Dempseyを中心とした研究グループは,高強度(>85 % VO2max)の運動にみられる過呼吸現象は呼吸筋で使われる相対的なエネルギー消費量を高め,それが本来活動筋へ流れる血液やO2を低下させることから,VEは持久性のパフォーマンスの制限因子であると述べ従来の考えを否定した.
例えば,過呼吸現象が現れ始める時(VEが約80~100 1/min),呼吸筋で使われるVO2は全身で使われるVO2のわずか4%に過ぎないが,オールアウト近くなるとVEは150~200 1/minになりVO2の10~15%にも達する.すなわち,本来活動筋に行くべき血液やVO2の一部が呼吸筋で使われるため脚筋の疲労が早まる.すなわち,VE(呼吸筋)が全身持久性の有力な制限因子であると考えた.
さらに,1990年代後半になると,Dr. Dempseyの弟子であるDr. Harms et alが,脚の運動中呼吸の仕事を制限すると脚への血流量やVO2が増加し,意図的に呼吸筋の仕事を多くすると脚への血流やVO2が少なくなることを証明することによって,呼吸機能が全身持久性の制限因子として広く認められた.これまでの研究者の大きな誤りは,エネルギー発生(酸素摂取)の視点からのみVO2maxの制限因子を追究し,酸素消費の視点から呼吸筋をみようとしなかったことにある.
呼吸筋が持久性の運動の制限因子になる事実は,持久性のパフォーマンスを高めるためには呼吸筋を鍛えることが重要であることを示唆している.この事実は呼吸筋トレーニング実験に研究者を駆り立て,呼吸筋トレーニングがパフォーマンス向上に好影響を与えることが多く実証されている.
すでに世界では陸上長距離,自転車,ボートなどの持久性のスポーツで呼吸筋トレーニングが日常的に実施されている.わが国でも呼吸筋トレーニングの各種のディバイスが市販され,利用されている.
マラソンやウルトラマラソンをフィニッシュした後,努力性肺活量が低下し残気量の増加がしばしばみられる.この原因は気管支周辺の浮腫もしくは末梢の細い気道の直径が縮小する閉塞傾向にあると考えられる.100㎞レースに出場した選手を対象にした筆者たちの実験では,レース3日前と3日後に同じオールアウト走を実施したところ,最大酸素摂取量が11.3%,肺換気量が34%低下した.
本人の内省では「呼吸しようと努力しても思うように呼吸ができなかった」と答えた.その後もこの症状が1~2週間続いたことから,気管支周辺の浮腫や軽い末梢の気管支閉塞が生じたと判断した.このような選手には特に呼吸筋トレーニングは有効と思われる.
呼吸は,体内に酸素を取り込み不用になった炭酸ガスを排出するだけでなく,自律神経をコントロールしたり運動のリズムを調整したりする.さらに,最大の筋力,スピード,パワーの発揮時に合わせて声を出すと無声に比べてこれらが約10~12 %高くなる.これは発声,すなわち,肺から空気を思い切って吐き出すことが覚醒を促し集中力を高めるためであると考えられている.
かつてウェイトリフティングや陸上競技の投てき種目では,最大のパワーを発揮する時声を出すことが奨励されたが,現在では他の選手に威圧感を与えるという理由で自粛されている.しかし,剣道では発声-行動の一致が有効打の判定の決め手になる.この方が生理的には合理的である.
老人人口の増加に伴い肺炎が脳血管疾患に代わって死亡原因の3位になった.その増加は誤嚥性肺炎によるもので,そのほとんどが高齢者である.高齢者の最大呼気圧の低下に伴う嚥下機能の低下や気道に入った異物を排出するための咳嗽(がいそう:せき込む)能力の低下などが,誤嚥性肺炎を発症し易くしている.
誤飲を起しそうになったら素早く顎を引いて気道を狭め,異物が気道に入りづらくすることが予防になる.呼吸筋トレーニング(呼気)を行うことが咳嗽機能や嚥下機能を改善するという報告もある.
近年,ランニング中吸気時に胸郭外の器官や上気道(咽頭,喉頭付近)で吸気音(ストライダー)を発するランナーがいる.先天的に気管支の構造に問題がある者やアレルギーなどで気管が狭い状態なったり,異物が混入したりした時にも同様な現象が認められる.ストライダーが認められる場合にはまず専門医に相談しなければならない.