陸上競技のルーツをさぐる11

障害物競走とハードル競走の歴史(そのⅤ)

110mHH変遷史―はじめての「ハイ・ハードル競走」

今日とほぼ同じ形式の「ハイ・ハードル競走<以後、「HH」と記します>」が、初めて行われたのは、恐らく1864年3月1、2の両日、オ大学内で行われた大会で「6人の選手によって120ヤードに10台のハードルを置いて」競われたレースであったと思われます。なぜなら、この3日後の3月5日には、オックスフォードのクライストチャーチ・グランドで、今日まで続く歴史的な「第1回オ大対ケ大対校陸上」が開催され、その一つの種目として「120ヤードH競走」が行われているからです。

前者についての詳細な記録を筆者は持ち合わせませんが、「オ大の学内大会」と「二大学対校戦」が、ほぼ同じ時期に同じグランドで行われたことを考えると、前者のレースもほぼこれと同じものであったと思われるからです。しかも後者の試合の様子や記録は、今日に至っても詳しく残っています。

 

この時の「規格(ルール)」は、今日世界的に行われている男子の「110mHと同じものであって、ハードルの高さは、3フィート6インチ(=3.5フィート=106.7cm)。ハードルの数は10台。「ハードル間のインターバル」は10ヤード、スタートから1台目、10台目からゴールまでの距離は、15ヤード(=13.72m)で、ケ大のW.T.ダニエル選手が17秒3/4で優勝し、65年の「学生選手権」では19秒0、66年の「第1回英国選手権大会」でも17秒3/4のタイムで勝利しました。

「ハードル競走」の規格基準

当時の「120ヤードH」に使われた「ハードル」は、前回⑩の図版のように、牧場の柵をそのまま持ってきたような木材を組み合わせて作ったものを、芝生のフィールドに直接埋め込んで使っていました。この時の「高さ」がなぜ3.5フィートにされたのかの根拠は明らかではありませんが、当時の銅版画の図版などから想像すると、おそらく当時の欧米各地の牧場の「柵」は、牛馬が逃げない様にするために、ほぼこの3~4フィート高さであったと思われ、「競技用」にはこの中間的な高さのものを採用したのではないかと考えられます。

 

当時のハードルは大仕掛けのものであったので、30年代から50年代の初期の大会では準備できる台数に限りがあり、広々としたクリケット場などで行う競技会では、ハ-ドル数を少なくしてインターバルの距離を十分にとり、100~200ヤードの直線に数台置く形式だったと思われます。

 

60年代に入って各地の大会で十分な数が準備できるようになり、その数は次第に固まり、120ヤードに10台、140ヤードに12台など<英国では原則的に12進法が使われるため>の規則で行うように整備されていきました。

 

この種目は20世紀を迎えるまでは、ハードルの形状は年々改良されてきたものの、ハ-ドルを何台も芝生のフィールドに埋め込むための時間や労力が大変で、常設してあったことから「トラック種目」というより、むしろ芝生上で行う「フィールド種目」として位置づけられていたようです。

 

また、ハードル間の距離「インターバル」は、当時の選手の疾走時のストライドや、身長・脚長などを考慮に入れて設定したわけではなく、欧米人が日常生活で使用している「弓を引くときの胸の中央から指先までの距離から決めた」と言われる「ヤード」という単位に合わせ、その10倍に当たる「10ヤード」毎にハードルを置く形式で始められたと考えられます。したがってハードル間の距離である「インターバル」が、当時の選手たちが走ったり、跳び上がったりする能力に合わせて設定されたものではありませんでした。

 

したがって、飛越の技術や体力が未熟であった19世紀のレースでは、ハードルが埋め込まれた頑丈な木組みのため、ぶつかった時にハードルが倒れない事もあり、恐怖感から図版写真の様に走高跳と同様の「飛び越える(jump over)」や「膝を曲げた状態(bend knee)」形のクリアランスが主流でした。1台ごとに両足でほぼ同時に着地をし、ほとんどの選手は、10ヤードを5歩で走るのが常でした。

この種目は1864年に始まった「二大学対校戦」や66年からの「AAAの選手権」でも同じ規格の規則が導入され、定着していきました。この時代、68年にH.ウィルキンソン氏が著した陸上競技の専門書、『Modern Athletics』には、こうした実績を踏まえて「120ヤードH」の競技方法については、上述した手続きで競技を行うように明示されています。

(以下次号)

 

図版の説明と出典

①「1908年第4回ロンドン五輪芝生上での110mH決勝の様子」

『Athletics at the Olympic Game』(Part 1 「月刊雑誌AthleticsToday付録」P17 1984年 M.Watman篇)

②「1937年の「全英選手権」でもフィールド内で120ヤードHを行っている」

『The Official Centenary History of the AAA (英国陸連100年記念誌)』P.Lovesey篇 P82(1979年 Guinness Superlatives Limited)

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岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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