科学エッセー(48)テクノロジー介入の功罪 2/4
2018年9月のベルリンマラソンで,ナイキ社が開発したVFシリーズのシューズを履いたケニアのエリウド・キプチョゲが2:01:39の世界記録を樹立した.わが国では同年2月の東京マラソンで,VFシューズを履いた設楽悠太(Honda)が2:06:11,11月のシカゴマラソンではVFシリーズを履いた大迫(Nike)が2:05:50と相次いで日本記録を樹立した.
キプチョゲはその後,2019年にウィーンで開催された「2時間切りイベント」で,かかとの厚さが39.5㎝,3枚のカーボンファイバー・プレートを装着したナイキ社の特別仕様シューズを履き,非公式ながらついに2時間の壁を破る1:59:50で走り切った.
どんなシューズは履くかで記録が大きく変わり,そのシューズの価格が約3万円とやや高価なことなど,スポーツの公平性や醍醐味が損なわれるという批判が生まれた.東京五輪へ向けた無用な混乱を避けるため,世界陸連(WA)は五輪に使用できるシューズを
- 靴底のかかとの厚さ40㎜未満
- プレートの数は1枚
- 2021年の4月29日までに発売されたシューズである
などの規定を含む新規則を公表.しかし,客観的指標である反発系数の上限設定は見送られた.
シューズ開発においては,シューズが有する緩衝力と反発力(弾力性)の相反する2つの機能をいかに最適化した水準にまとめるかが長年の課題であった.ナイキ社は著しい進化を遂げている近年のテクノロジーの成果を駆使し、2017年に画期的な厚底シューズを発表した.
このシューズは,フォームと呼ばれる2枚のバネのある合成樹脂で作られたソールの間にカーボンファイバー製プレートを挟むことで,プレートをバネとしてソールの復元速度を高め,弾力性を大きく向上させている(図1).ソールの比較的弱い緩衝力をソールの厚みを増すことで補強.軽くて強靭な弾性力を持つカーボンファイバーを,弾力が分散するのを極力減らすためにスプーン状に成型した.それによって,走る前方向へ反発力が集約しやすくなり,足の振り出しがよりスムーズになった.
カーボンファイバーは炭素原子を網目状に結合させた炭素繊維で,釣竿やゴルフのシャフトなど多くのスポーツグッズに使われている(小山義之著『スポーツグッズの科学』).話題のシューズは弾性力の高まりにより、足の前方への振り出しを容易にし,結果的に無理なくストライドを伸ばすことを可能にした.
グッズの技術革新とスポーツの公平性や安全性の視点から,グッズの使用制限が加えられたケースとしては,競泳や冬季スポーツなどがあるが,ここでは競泳の水着に関する世界水連の対応を紹介する.
競泳では3つの抗力
- 泳者の手が前方から後方へ押し出されるときに水が体の脇を通って後方へ移動する際の圧力抵抗
- 水着に直接当たる水との摩擦の表面摩擦
- 泳者が身体の前面で波を立てる時に発生する造波抵抗
をいかに軽減するか-が泳速を上げるポイントになる.
1992年にオーストラリアのスピード社が、体にぴったり装着できる女性の水着を開発して水の抵抗を15%削減することに成功.これが水着開発競争の起爆剤となり,その後に同社はサメ肌水着(ファストスキン)を開発し,2000年シドニー五輪自由形種目ではメダリストの約8割がサメ肌水着を着用するまでになった.
2004年アテネ五輪では,さらに改良されたファストスキンⅡを着た選手が大活躍.2008年北京五輪では,競泳の金メダリストの9割以上が同社のLZR(レーザー)を着た選手であった.その翌年の世界選手権(ローマ)では,スピード社のLZRとライバル社のアリーナ社が開発したXグライドの水着を着た選手のすさまじい“競演”で,計43個の記録が更新された.
この大会でも有力視されていたマイケル・フェルプス(米国)が,大方の予想に反してXグライドを着たパウル・ビーダーマン(ドイツ)に敗北.インタビューアから「負けた相手は選手ですか?それともテクノロジーですか?」と皮肉な質問を受けている.
それを聞いたフェルプスのコーチは「スポーツは大混乱に陥っている.早く何らかの手を打たなければ,試合に出る選手はいなくなる」と“存亡の危機”を訴えた.国際水連は重い腰を上げ,2010年に「男子は全身を覆うタイプから,腰から膝までを覆うだけのショートスパッツ型水着(ジャマー),女子も1990年代の水着にまで回帰する」水着の規制を決めた.
テクノロジーの進化による高速水着を使用禁止にした理由は明確にされていないが、考えられるのは
- 記録ラッシュにより世界記録の価値が薄れる
- 選手自身の実力ではなく水着の選択が記録を左右する
- 水着が高価(約7万円)なため不公平感がある
-などが挙げられるだろう.
ナイキのシューズが巻き起こしたさまざまな論議は,スポーツテクノロジーによる進歩があまりにも速すぎ,選手を含めて人々の意識変容が速さについていけないことが要因となっていると言えよう.
本稿の水泳・水着に関する項は,スティーヴ・ヘイク著『スポーツを変えたテクノロジー』を参考に記述した.