科学エッセー(43)呼吸筋トレはエリート走者にも有効

近代生理学の祖英国のノーベル賞博士AV Hillは、1924年に「全身持久性の制限因子が心臓・血管を中心とする酸素運搬系にある」と述べた.

 

この見解に対して,マラソンのような長時間の運動では呼吸筋に疲労が現れることから、呼吸筋も持久性の制限因子の1つであると言う論文が発表されたが,その度に否定されてきた.

 

この主な理由は,①最大作業(例えば,1500mの全力走)のオールアウト時の動脈血の酸素飽和度(HbとO2の結合の割合)は92%≤を維持している(Asmussen et al,1958).(ただし,最近のエリートランナーは80%近くまで追い込むことができる),②最大作業でのオールアウト時の肺換気量は最大自発的換気量(15秒間に呼出できる最大の空気量)の65~75%すぎない (Shephard,1967),③マラソン走行時の心臓・血管系の測定項目は最大値の85%を超えているが,肺換気量だけは70%台とまだ十分余裕がある(Fox et al,1972)などであった.

 

当時の世界の運動生理学をリードする研究者たちの考えに反して,頑なに呼吸筋に制限因子があると信じて執拗にそのエビデンスを追究したのは,米国のウィスコンシン大学のデンプシイ(Dempsey)博士を中心とする研究グループである.

 

1990年に入ると、彼らは矢継ぎ早に呼吸筋が全身持久性の重要な制限因子であることを証明した.その一人Johnson et al(1992)は,作業強度を高めていくと酸素摂取量(VO2)や心拍出量(Q)は直線的に高まるが,やがて増加率が低下し始めしばらくすると完全に定常状態に達してオールアウトに至る.

 

しかし,肺換気量(VE)だけはVO2などに定常状態が現れ始めても逆に指数関数的に高まる.例えば,VO2やQに定常状態が現れ始めた時の呼吸筋で使われるエネルギー代謝量は全酸素摂取量(totalVO2)の約4%に過ぎないが,オールアウトに達する頃には10~16%にもなる.

 

博士たちは,VO2に定常状態が現れた後呼吸筋で増え続ける代謝量(酸素)はどこからくるのだろうかと考え,本来活動筋(脚筋)に行くべき血液や酸素の一部が呼吸筋に横取りされるのではないかと推理した.そして,この呼吸筋の作用を “盗血現象”と名づけた.

 

この推測を実証したのは同僚のHarms et al(1997)である.博士は,高強度の自転車駆動中に人工的に呼吸抵抗を加えると,呼吸筋の仕事やVO2が大きくなるにもかかわらず活動筋(脚筋)のVO2は減少する.逆に呼吸抵抗を軽減すると呼吸筋の仕事やVO2が減少し,脚筋への血流量や酸素の供給量が増加することを証明した.

 

続いて同僚のWetter et al(1999) は,活動筋の血中乳酸濃度(La)が急激に高まり始める乳酸性閾値(LT)までは血液配分にヒエラルキー現象(階級序列)が認められないが,LTを超える頃から徐々に吸気筋(横隔膜)に階級序列が現れ始める,すなわち,吸気筋への血流量が下肢への血流量より優先されるようになると考えた.

 

さらにそのメカニズムを追究した同僚のSt Croix et al(2000)は,呼吸筋に疲労が現れ始めると交感神経活性が高まり,それが反射的(代謝性反射)に下肢の骨格筋の交感神経性血管収縮を促し血流の抑制に作用することを明らかにした.現在ではこの呼吸筋の代謝性反射説が最も有力な説となっている.

 

現場の指導者の興味は,そのメカニズムよりも呼吸筋のトレーニングがパフォーマンスに好影響を与えるか否かであったので,当時の研究者はどんな運動で,どんな強度と時間で呼吸筋疲労が現れるかを追究した.試行錯誤の結果,現在では100% VO2maxの強度では≤5分, 85% VO2max以上で25~30分,70~75% VO2maxでは2~3時間以上のスポーツで呼吸筋に疲労が出現することが明らかにされた.

 

従って,例えば,マラソンのベストタイムが2時間10分以内のマラソンランナーであれば,マラソンのレースでは約80% VO2maxで走っていることから1.5~2.0時間で呼吸筋疲労が現れ,活動筋(脚)への血流に影響が現れてくると判断され,さらにハイペースで走るためには呼吸筋トレーニングは必要不可欠であると考えた.

 

その後,各種のスポーツ,例えば,陸上短・中・長距離,ウルトラマラソン,トライアスロン,自転車競技,漕艇,水泳,クロスカントリースキー,サッカーなどで呼吸筋トレーニングによるパフォーマンスの向上が報告されている.

 

トレーニング実験では,被験者の競技水準とトレーニングによるパフォーマンスの改善率との間に反比例が存在する.従って,初心者に改善が出ても一流選手に改善が認められる保証はない.上記のスポーツ種目でナショナルレベルの選手を対象にした報告は自転車競技とトライアスロンの選手である.

 

そこで筆者らは,箱根駅伝の予選会の成績が15位程度の大学のエリート選手を対象に,8週間(3回/週,30呼吸×3セット/1回)の吸気筋トレーニング実験を行った.

 

その結果,VO2maxは不変であったが,ランニングの経済性に有意な改善が認められ,一定のランニングスピード(vVO2max)での持続時間に31.5%の有意な改善を認めた.呼吸筋トレーニングはエリートランナーにも有効であると思われる.

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山地 啓司

山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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