科学エッセー(36)マラソン界の話題三話

第1話

昨年10月12日、英国石油化学会社等のスポンサーによる“マラソン2時間切り”のイベントがウィーンで開催され,世界記録保持者のキプチョゲ(ケニア)が非公認ながら1:59:40で走り、人類念願の2時間切りを果たした.

 

この記録は昨年、イタリアで行われた“マラソン2時間切り”イベントで果たせなかった記録(2時間0分25秒)を45秒短縮したものである.

 

今回は五輪メダリストら世界から集まった41名(日本からは村山紘太:旭化成が参加)の精鋭が交替しながら,常に7名がペースメーカーと風よけなどの協力をして達成したものである.

 

この成果は,2時間を切るためにはドラフティング(空気抵抗を減らす走行)がいかに大切であるかということを改めて示した.また,空気(風)抵抗によるエネルギーロスをいかに減らすか,あるいは,このロスを上回るスピードとスタミナをいかに高めるかが今後の課題であることを示唆した.

 

今年のベルリン・マラソンでは、エチオピアのベケレがキプチョゲの世界記録にあと2秒に迫る2:01:41で走り切っている.

 

 第2話

翌13日に開催されたシカゴマラソンの女子の部では、コスゲイ(ケニア)が難攻不落と思われていたラドクリフの記録を1分21秒上回る2時間14分04秒の驚異的な世界記録を打ち立てた.

 

バスケットボール(NBA)ではシュートすればことごとくゴールインするような絶好調の状態を“ホットハンド”と呼ぶ.その著名な例として,1992年アトランタ・ホークスのD.ウィキンスが連続23回のフィールドゴールを決めたこと,2006年にはC.ブライアントがロサンゼルス対トロントの試合で81ポイントのNBAバスケット史上1試合最高得点を獲得したことが挙げられる.これらの記録は10~20年に1度あるかないかの大記録である.

 

マラソンのコスゲイが自己ベストを4分16秒上回る大記録を樹立したのは,恐らく普段は30㎞を超えて疲労が蓄積し、スピードを維持するのが困難な状態になるものが,この日は逆に体から疲労物質が霧散し,体が軽く脚が自然に動く絶好調の状態,すなわち,バスケットの“ホットハンド”になぞらえて筆者が“ホットレッグ”呼んでいる水準に到達したのではないかと想像する.

 

筆者もマラソンレースで30㎞を超え疲れ始めた頃から,急にからだ中の毒素が抜け,脚が軽くなり,スピードをどんどん挙げても全然疲れを感じない“ホットレッグ”を経験したことがある.ランニング仲間にこの話をしたところ2~3の者から自分たちもこのような絶好調を経験したことがあると賛同を得た.

 

この現象に似た現象を英語でランナーズ・ユーフォリー(runner’s euphoria)と呼び,久保田競はランナーズハイと呼んだ.久保田は『ランニングと脳』の中で,ランナーズハイ出現の状態を,「セカンド・ウィンドの気分の良い状態の時は意識もはっきりしていて,ものを考える力も普通以上にある.

 

さらに,そのまま20~40分走り続けていると,少し頭がぼんやりしてくるが非常に気持ちが良い状態がやってくる.この状態を陶酔状態(多幸),すなわち,ランナーズハイと言う」,と説明している.

 

筆者が言う“ホットレッグ”は,よりハイスピードで長時間走り,普段なら疲労の蓄積がピークになる頃に急に頭・内臓・脚等の全身の機能的働きが最高度に高まってきて,それが20~30分間続くことから,ランナーズハイとは若干異なる現象と考えている.

 

第3話

2019年7月の陸マガの付録に「マラソン世界歴代50傑」が掲載されている.男子では50傑の28名がエチオピア,21名がケニア,1名がバーレーン(ケニア出身)と,100%が高所民族である.女子では23名がエチオピア,17名がケニア,その他の国々が10名(日本人は3名:野口,渋井,高橋)と高所民族が80%を占めている.

 

限られ地域の民族が50傑の中80~100%も占める五輪種目があるだろうか.彼らは2,000~2,500mの高所に約300万年前から住み,その間シーレベルでは空気中の酸素濃度が20.9%なのに対して,16.4~15.7%と低い環境下で生活や活動をしてきた.

 

レースがシーレベルで開催されることは,高所民族は普段よりも数%多い酸素を呼吸しながら走っていることになることから,シーレベルの選手に比べ心肺機能には余裕がある.さらに,長年の低酸素下での生活でからだが酸素を効率よく使える,すなわち,車に例えるとハイブリッド化されているため疲れ難い.

 

その上,300万年間狩猟民族として大型の肉食獣と同じサバンナで共存してきたことから,それらの動物から逃れる体力と知恵がある者の子孫が生き延びてきたに違いない.

 

自然環境や変動する社会環境の中で生き延びるためには体力があり知恵があるだけでなく,環境や社会の変動に適応しなければならない. 1980年に入ってマラソンの賞金レースが世界に普及し,高所民族は彼らが有するスタミナを生かすためにマラソンレースに積極的に挑戦した,すなわち,社会の変動に適応することで世界のスポーツ界で不動の地位を築いたと言える.

 

マラソンの人材的宝庫は東アフリカにある.長距離界の不動の地位は当分の間ゆるがないであろう.

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山地 啓司

山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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