科学エッセー(24)モンゴル相撲の横綱に会った(下)

モンゴル相撲の最初の師は大相撲の白鵬関の父、横綱ムンフバト氏であった.

当時7歳の子供だった白鵬の手を引いて遊ばせた思い出を、ウスフバヤラ氏は目を細めて懐かしそうに語った.

45歳で厳しいトーナメントで優勝できたのは、永く激しいトレーニングをしてきた累積効果によるものであろう.

 

アルハンガイ県及びその周辺からは、歴代横綱の半数以上を輩出しており、他にも体が大きく優れた力士が数多く生まれているという.

その理由を尋ねたところ①高地で緑が多い②水が豊富③指導者が多い-すなわち、天地人に恵まれた環境を第1に挙げた.

 

第2には子供の頃から馬乳,馬乳酒,馬肉を多く飲み食べたことを挙げた.

ウスフバヤラ氏によると、馬乳酒は6~9月まではアルコール濃度が低く,暑い季節なので子供の頃は水代わりによく飲んでいた.

おかげで,今も虫歯がなくて真っ白で強いと、白い歯を見せて笑った.

 

第3には、4歳ごろから馬に乗って自然の中でいっぱい遊び,喉が乾いたら馬乳酒を飲む生活をしていたことを挙げていた.

遊牧民のゲルの生活は暑さ・寒さが厳しく,そのことが病気をしない逞しいからだをつくったという.

 

モンゴル全人口の40%以上の約150万人が住む首都のウランバートルからなぜ著名な力士が誕生しないのかをたずねると「暑さ寒さがコントロールされた壁に囲まれた部屋の中でテレビゲームに夢中になっている子供たちからは、優れた力士は出ない」と語気を強めた.

 

相撲以外の筋力トレーニングをどのように行ったか聞いたところ、「山,川,寒暖等々すべてがトレーニングの対象である」が答えだった.

「何キロもある大岩を抱き,山を登り後ろ向きで下る.川の中では大きな板をからだの前面に持ち水流に逆らって歩く.また,大きなタイヤや丸太を相手に相撲を取った」という.

このようなトレーニングは一見何でもないように見えるが、大変に難しいトレーニングだと付け加えた.

 

日本の相撲部屋から勧誘がなかったのかとたずねたところ「私はモンゴル相撲を愛し、伝統を守りたいからモンゴルに残った」と答えた.

しかし,郷里の先輩、旭鷲山や旭天鵬などが日本の相撲界で活躍するのをモンゴルで見聞しながら複雑な心境だったであったことは間違いない.

 

ウスフバヤラ氏は、日本の相撲強豪校、鳥取・城北高校へ息子を進学させている.

白鵬の活躍をわが子のように喜ぶ姿からも,自らが果たせなかった「ジャパニーズドリーム」への思いを託しているのであろう.

 

ウスフバヤラ氏は現在、モンゴルスポーツ協会(16競技団体が加盟)会長を務めている.

モンゴル軍隊学校長も併任しており、2日後に学校へ招待された際は土曜日にもかかわらず、職員・選手が特別登校する歓迎ぶりだった.

校長自身もそこで相撲のトレーニングを行い、指導もしている.

日本からの訪問者に対しても細かい気配り、気遣いができる.

感性に優れた大横綱であると強く印象付けられた.

 

モンゴル国内を車で旅すると、チンギス・ハーンの“廟”が点在する.

モンゴル人は車から降り酒を大地に捧げ一礼をする.

彼らの心の中にいまなおチンギス・ハーンが生き続けていることを感じる.

 

この国民の心情を具現化したのがナーダム祭であろう.

古代ギリシャ人がオリンピア競技を開催したのと同様,ある者は競技するため,ある者は応援・観戦するため,全国から車を連ねて競技場に集まってくる.

モンゴルの国民が種族の垣根を越え、心と体が一体となれる場所と時間なのである.

 

ナーダム祭最大のイベントは相撲である.

優勝者は最高の英雄となり、チンギス・ハーンの再来と崇められる.

横綱ウスフバヤラ氏が“モンゴル相撲の伝統を守りたい”と語ったのは負け惜しみではなく,本心からの言葉だったろう.

 

本項をまとめるにあたって、モンゴル相撲の研究家・井上邦子教授(奈良教育大)のモンゴル国の伝統スポーツ―相撲・競馬・弓射』(創文社)を参考にさせていただいた.

ここに記して感謝いたします.

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山地 啓司

山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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