エッセー(20)マラソンのレースペースの理想と現実

中長距離レースのペースは走る距離の長さによって異なる.一般には,800mや1500mレースでは,スタートからハイペースで走り始め徐々にペースダウンするオールアウト・モデル(Foster et al, 1994)であるのに対して,5000mや10000mでは序盤と終盤が速く中盤にペースが若干ダウンする典型的な皿型のペースである.

 

マラソンではロードを使用するため開催される大会ごとにコースの特性(上り下りの位置や傾斜,ロードの表面の状態,カーブの数や角度等),あるいは気象条件やライバルの有無などが異なるため,異なったレースの1㎞あるいは5㎞ごとのスプリットタイムをそのまま比較することはできない.

 

ケニアのキプチョゲが2018年のベルリンマラソンで世界新記録(2:01:39)を樹立した時の,また大迫傑がシカゴマラソンで日本新記録(2:05:50)を樹立した時のペースは,前半よりも後半が速いネガティブスプリットタイムであった.これは最近のマラソンレースで好記録が出た時にみられる1つの特徴である.さらに,キプチョゲのペースを序盤(0~15㎞),中盤(15~30㎞),終盤(30~40㎞)に分け5㎞の平均値で比較すると,それぞれ14:31.3, 14:22.7, 14:23.5と序盤は少し遅い.

 

このレースではキプチョゲは約25㎞から独走態勢を築きフィニッシュまでの約18㎞を一人旅している.もしキプチョゲが並走するライバルと競い合いながら走っていたならば,終盤のペースはもっと速いペースであったことが推測される.いずれにしろ,このペースは理想の物理的、生理的イーブンペースと少し異なっている.

 

マラソンの記録はエネルギーの出力の大きさ(最大酸素摂取量(VO2max)と酸素摂取水準(%VO2max)の積)及びこのエネルギーをいかに巧みに使うかの能力「ランニングの経済性(RE)」によって決まる.ただし,これらの生理的能力はフィニッシュ時には前者が約7~8%、後者が約2%、トータルでは約10%低下している.

 

仮に,マラソンの理想のペースが物理的にイーブンペース(Ely et al,2008)であるとすると,生理的にはエネルギーの出力とランニングの経済性の低下率が漸減的あるいは指数関数的に低下しながら,丁度フィニッシュ地点で物理的イーブンのペースと交差するペースである(図1).すなわち,物理的イーブンペースを維持するためには,マラソンを走るための生理的ペースであるvLTよりも約10%の低下を見越したペースが生理的理想のペースとなる.

 

ではなぜ,この理想と現実のペースに齟齬が生じるのであろうか.その大きな要因は選手の心理にある.マラソンは長丁場のレースであることから,途中でどんなハプニングが生じるかわからない.スタート前に多くの選手はそんな不安を持っている.

 

Ulmer(1996)はマラソンを走る際,これまでのマラソンの経験,マラソントレーニングの実施状況やコンディショニングの状態等を勘案し,レース途中で大幅にペースアップやダウンをしない維持可能な最高速度を目標にしてスタートするという「安全予知論」を発表している.

 

また,南アフリカのNoakesの研究グループ(2000)は,マラソンを走っている時は心肺や脚の疲労情報が組織から大脳に送られ,大脳はその情報を基に総合的に判断してペースを調節するという「中枢制御理論:central governor model」を提唱した.

 

マラソンを走る際のランナーの心理は安全で安心なペースをまず求める.そして,スタートすると選手個々人の疲労状態,気象条件や残りの距離,ライバルの調子等を総合的に判断しながらペース調節を行うが,そのベースは安全と安心である.すなわち,マラソンのペースは物理的に安全で心理的に安心なペースが重んじられる.

 

とかくヒトは,先行き不安を感じると安全・安心なペースを選択する.選手個々人は終盤までにいかに生理的余力を残して走るかを考えながらペースを調節するが,ゴールが近づき,少々ペースアップしてもフィニッシュするまで大きなペースダウンはないと判断すると,ペースアップし,それでもまだ心身に余裕がある時には記録更新のペースにチェンジする.一般にトップランナーの多くがこのようなペース調節法をとっている.

 

従って,マラソンの記録(Y)にはエネルギーの出力の大きさ(x)とランニングの経済性(a),および,そこに精神力(b)が加わって, Y=ax±bの式が成り立つ.すなわち,ペースは精神活動の影響を強く受ける.

 

2017年に開催された「マラソン2時間切りへの挑戦」に出場したチプチョゲは2時間を切るために綿密に計算されたイーブンペースを維持して走ったが,残念にも終盤にペースがダウンして2時間切りの目的をはたすことができなかった(+20秒).しかし,このイベントで経験したペースと自信は翌年のベルリンマラソンで世界新記録樹立という未知に対する不安を払拭するのに役に立ったと思われる.

物理的イーブンペースを維持される時は心理的・生理的に余裕がある.理想は心理的・生理的余裕が零になった時フィニッシュすることが理想である.途中で心理的・生理的に余裕がなくなり始めてしばらくすると,物理的イーブンペースが維持できなくなりペースは低下する.このペースはオーバーペースを示す

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山地 啓司

山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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