陸上競技のルーツをさぐる31

走高跳の歴史<そのⅣ>

「ベリーロール」の誕生

自分の脚力だけで高所を跳び越える「高さ」への挑戦は、ルールが許す範囲で選手たちがバー・クリアランス技術を様々に工夫し、肉体の鍛錬を重ねる中で進歩してきました。

 

「ベリーロール」の「ベリー(belly)」とは、英語で「腹(おなか)」の意味です。1930年代になると、米国のD・アルブリットン選手がバーを越える際にバーの上で「腹ばい」になる跳躍法を編み出します。彼はこの跳び方で1936年7月に6フィート9インチ3/4(2m07)の世界記録樹立し、同年の「ベルリン五輪」でも銀メダルを獲得しました。

この跳び方は「バーの上で腹を回転しながら越えて行く」という意味から「ベリーロール(Belly Role)」と呼ばれ、バーをまたぎながら越えることから「ストラドル(straddle)」とも言われました。

 

しかし、「ダイビング式の跳躍を禁じる」という当時のルールに限りなく近いフォームだったため、無理な空中姿勢にならざるを得なかった。「バーの上で頭が足より低くなってはいけない」というルールはなかなかの難物でした。

 

1941年6月、L・スティアーズ選手(米国)がバーの砂場側に頭部を突っ込むことで楽に安全にバーを越える技術を身に付け、世界記録を6フィート11インチ(2m11)に更新しました。

 

その後、第二次世界大戦中の空白期を経て、大戦後には運動力学的にも合理的な「ベリーロール」を試みる選手が世界各地から出てきました。同時に選手の動きの中で「バーを越える時に足が先か、頭が先か」の判定が難しくなりました。

 

一方で、新たに普及し始めた柔らかい化学製品を網に入れた着地場が生まれ、まもなく「ダイビング禁止ルール」が規則から姿を消します。ところが、跳躍技術に関しては1948年ロンドン五輪以降も、正面跳、ロールオーバー、ベリーロールの3種のクリアランス技術が混在しながら世界一の座が争われました。

 

1956年メルボルン五輪には、初めて五輪に参加したソ連の選手たちが卓越したベリーロールの技術を披露し、I・カシュカロフ選手が銅メダルを獲得。6位にも入賞者を出し、その後も世界的な競技会を席巻します。1960年ローマ五輪ではR・シャフラカーゼ選手が金、V・ブルメル選手が銀のメダルを獲得し、4位にもV・ボルショフ選手が4位に入って他国の選手を圧倒。ベリーロールの優位性を強く印象付けました。

1953年から63年までの10年間で世界記録は2m12から2m28まで16cm伸びました。なかでもソ連のV・ブルメル選手は、金メダルを獲得した64年の東京五輪前年までに世界記録を1人で6度更新し、2m23から2m28にまで高めました。

 

「背面跳」の出現と記録の飛躍的向上

着地場の改良はさらに加えられ、今日でも使用されている高さ1m近い分厚いマットが普及していきます。1968年メキシコ五輪以降は、雨天でも晴天時と変わらない競技が可能な全天候型のトラックが出現。走高跳でも「コペルニクス発想の転換」から生まれた跳躍スタイルが披露され、世界をアッと言わせました。

この技術を披露して金メダルを獲得したのは、21才のR・フォスベリー選手(米国)でした。オレゴン州立大の学生だったフォスベリー選手は「背中でバーをクリアーする」という誰も思いつかなかった「革命的な技術」で2m24を跳びました。

この記録は、当時のベリーロールによる世界記録を上回ったわけではありませんが、やがてこの跳躍スタイルは瞬く間に世界中に普及し、今日に至っています。

 

この方法は、踏切った後、身体を反転させて助走路の方を向き、バーを越える時に「背中でクリアーする」ので、英語で「ドブンと飛び込む」、「ゴロリと横になる」という意味と、「寝返りをうつ」、「バッタリと落とす」などの意味を持つ「flop」という動詞にピッタリの動作だったので、この呼び名が付いたのでした。

また、跳躍法を日本語で「背面跳」と命名した人の名前は定かではありませんが、いかにもこの跳び方をうまく表現した言葉であり、超画期的なものでした。

この跳躍法によって、すぐには世界記録が誕生したのではなく、68年当時、まだ、「ベリーロール」が全盛で、V・ブルメル選手(ソ連)の記録が立ちはだかっていました。

71年7月には、フォスベリー選手と同じ米国のP・マットドルフ選手が、「ダイビング型」の「べリー・ロール」を開発して記録を1cm更新しましたが、72年の「ミュンヘン五輪」ではJ・タルマック選手(ソ連)も伝統の「ベリーロール」で優勝しました。

「背面跳」の本領がようやく発揮されたのは、翌73年7月の事で、D・ストーンズ選手(米・ウイスコンシン大)が、スピードある助走と195.7cmの長身を活かしてこの跳躍法で、ついに2m30の壁を突破しました。

この間、昔ながらの「砂場」で「背面跳」を試みる選手もいて、背骨や首の骨を痛める重大事故が2件も出たので、当時、米国の「スポーツ医事委員会」では、着地時の事故防止のために調査会を設け、「すべての競技成績向上のためのフォームは、常に事故の危険を伴うものである。出された成績がコーチの推薦する技術に従っているものなら、走高跳におけるこの跳び方は、以前の跳躍方法や他の「棒高跳」や「体操競技」と比べて危険の発生は少ない。規則委員会は、海綿状のゴムまたは走高跳用の着地場を用意する様な規則の作成を強く要求する」という報告書を提出しました。これ以後、「国際陸連(IAAF)」でも、「着地場」の整備を正しく行うという「規則」を確認して、今日ではこの跳躍法が合理的な跳び方だと認めてきています。

以後、半世紀を経て今や世界記録は、数段飛躍を続けて男子では「男子バレーボール・ネットの高さの8フィート(2m43)」を上回る2m45に達しています。当然ながら女子でも背面跳が採りいれられ、第二次世界大戦直前の男子の記録を上回る2m09にまで到達しています。

以下次号

写真図版説明と出典

  • ①「1936年「ベリーロール」を考案して世界記録を更新したD・アルブリットン選手(米国)のフォーム」
    『Coaching and Care of Athletes』(1938)F. A. M. Webster著 p344 (George G. Harper & Co. Ltd)
  • ②「2m23~2m28まで6度の世界記録を更新したV・ブルメル選手(ソ連)の跳躍」
    『A World History of Track and Field Athletics 1864-1964』(1964)
    R. L. Quercetani著  p191 (Oxford University Press)
  • ③「1968年メキシコ五輪で、背面跳を披露して2m24で優勝したD・フォスベリー選手(米国)の跳躍。<着地場のマットに注意!>」
    『The History of the Olympics―A Pictorial Review of the World’s Greatest Sporting Event―』(1975)Martin Tyler & Phil Soar共編 p83 (Marshall Cavendish Books Ltd)
  • ④1994年9月11日、ロンドン留学中に観戦したクリスタルパレス競技場での「94年ワールド・カップ大会」で、現在も男子の世界記録を持つJ・ソトマヨル選手(キューバ)が世界記録に挑戦した時の写真。<記録は2m40に終わる>」『岡尾が撮影』
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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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