エッセー(15)マラソン2時間の壁突破は“いつ” “誰が”

これまで多くの研究者はマラソンの記録が“いつ” 2時間を突破するかについて過去のマラソンの世界記録の軌跡から推定してきた.古くはAV.Hill(1924)が100mからマラソンまでの記録の伸びが年と共に比例して改善するとみなし,Ryder et al(1976)はその考えを踏襲してマラソンの2時間の壁が2004年に破れると推定した.

 

しかし,その推定は大きく外れた.その原因はマラソンの記録の伸び率が年とともに徐々に低下し,直線的に改善するのではなくむしろ指数関数的な曲線を描きながら変化することにある.そこで10数年前から,過去の記録から推定する際には指数関数を用いて推定するようになり,2時間突破の夢は2028年~2100年と大きく後退した.

 

ところが,2008年以降から高所民族の積極的なレースによってマラソンの記録は再び急激に伸び始め,2008年には2時間3分台へ(エチオピアのゲブルセラシエ),2014年には2時間2分台へ(ケニアのキメット),そして,2018年にはケニアのキプチョゲが2時間1分台へと記録を更新した.このスピードの改善率が維持されると2019年には0分台、2020年に2時間の壁が破られると推定される.

 

では近年の急激な記録短縮の加速化現象はなぜ生じたのであろうか.その原因として選手の体力や走技術の改善は勿論,記録の出易いコースへの変更,道路舗装技術とシューズの機能的改善,ライバル選手の層の厚さや高額なレース賞金によるメンタル的刺激,情報機器の普及によるトレーニング方法の改善等の複合的な要因が考えられる.

 

特に,一気に1分18秒の短縮に成功したキプチョゲのパフォーマンスは、2時間切りのペースアップに大きく貢献した.近年の急激な記録の伸びは高所民族,すなわち,ケニア選手とエチオピアの選手の活躍にある.

 

マラソン世界歴代記録の10傑は6名がケニア人,4名がエチオピア人で占められている.その強さを支えている要因の1つは、最近の情報機器の普及や東アフリカ人の海外への進出によって、欧米や日本のマラソントレーニング法を学び,日頃のトレーニングの中に取り入れている選手が多くなってきたことが挙げられる。

 

もう1つはシューズの改善にともなう影響が考えられる.特にキプチョゲの80秒近い記録更新は絶好の気象条件とシューズの改善によるところが大きい.

 

これまで世界のスポーツシューズメーカーはランニングシューズの3つの機能(軽さ,緩衝能と反発力)を高めるためにしのぎを削ってきた.日本のメーカーが特にシューズの軽さと緩衝能の改善に力を注いでいた2006年頃,ナイキはすでにシューズの反発力を高めるカーボンファイバー・プレートの埋め込み型のシューズの開発に取り組んでいた.

 

2015年には効果に個人差が大きいことが報告され,ナイキは2017年に人類がマラソンの2時間の壁を破る可能性を追求する機会と自社の新製品(Nike prototype: NP)の性能の高さをアピールする目的で,2時間突破を図るイベント,すなわち,“breaking 2”を開催した.

 

ナイキはこの2つの目的を遂行するための挑戦者に,現在の世界最速男と目されるリオ五輪覇者のキプチョゲを指名し、ケニア、エトルリア2人のランナーをパートナーに選んだ.

 

このレースでは、ランナーへの風の影響を最小限に抑えるために人海戦術でランナーによる壁を作り,水分補給は自転車に乗った給水担当者が手渡しで行う徹底した対策をとった.その結果、終盤の減速によって25秒オーバーして惜しくも2時間は破れなかったが,2時間突破の可能性がもう目の前に来ていることを世に訴えたインパクトは大きかった.ナイキはこれにより、衝撃を和らげ反発力を高めた新製品(NP)の性能の高さを世界にアピールすることに大成功した.

 

さらに,2018年には2~3件の科学雑誌にナイキの新製品(NP)が自社の既存のZoom Streak 6(NS)やライバル企業のアディダス社のAdizero Adios Boot 2(AB)に比べ,エネルギー消費量が4%余り少ないことが掲載された.このシューズの弾力性がエネルギー量の削減と脚筋の疲労の遅延に効果的に作用し,マラソンの記録を何分何秒短縮するかは個人差に負うところが大きいが,おおよそ1~2分の短縮が期待される.

 

では、どこの大会で2時間が突破できるのか?世界歴代の上位7位までがベルリン・マラソンで記録されたことから、ベルリンが最も有力であることに異論は少ないだろう.好記録の要因は標高差が約23mと少なく,しかも最も標高が高くなるのが27~28㎞の距離で,その後はほとんどが下りの走り易いコースである.

 

さらに,優勝賞金が約550万円,世界記録樹立のボーナスが約760万円で、キプチョゲは世界記録樹立によって総額2700万円以上の賞金を手にしたとされる。新記録を狙うためには魅力ある大会である.このため世界一流のランナーがベルリンに集結し,相手に不足がない大会になっている.

 

誰によって破られるか?それは、歴代記録の10位までを独占しているケニア、エチオピアの選手になることはほぼ間違いない.なかでも、あと100秒にまで迫っているキプチョゲが最初の「2時間突破ランナー」の最右翼であることは論をまたないだろう.

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山地 啓司

山地 啓司

1965年卒 立正大学法制研究所特別研究員 
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