あの日のように~エピソード7

依然、快調なペ一スで走っていた。丁度中間点を過ぎる頃に急な上りがあって、そこから長い下りに入る。13㎞を過ぎた頃だった。右足の裏に違和感を覚えた。マメができたようだった。メーカーからもらった新しい靴を履いていたが、いつものシューズより少し大きかった。試したときは大丈夫だったが… しかしそれでも、予定タイムを大きく上回って横浜の街を過ぎていった。

高速道路高架下の15㎞を過ぎて…(片足をかばっていたからだろう)今度は左足にも豆ができてしまった。(くそー、こんなときに)と思い、気にしないでいようとしたが、思えば思うほど痛みが増してきた。

ぺ一スがじわじわと落ちて設定タイムに近づいてきた。20㎞地点が迫ってきた。右足の豆がつぶれたようだった。20km通過、それでも予定をかなり上回っていた。1時間17分台が可能だった。

その直後私のぺ一スは急激に落ちてきた。監督車からの声が激しくなっていた。泉田さんもジープに乗っていた。マネージャーの桜井の声もした。

「坂、5番だぞ!5番で走っているんだぞ!」・・・…
「坂、最後じゃないか。最後の箱根だぞ」・・・・・…
「坂、あんなに練習したんだぞ。あんなに頑張ってきたんだぞ!」・…
「坂、みんながそのタスキを待っているんだ…」
「坂…わきさか…ワキサカ・・わきさか・・wakisaka…」

頭の中でそんな言葉がグルグル回っていた。しかし脚はだんだんと動かなくなってきていた。アンカーは2つ下の合田浩二という選手だった。I・Hの5000mで2連勝した強い選手だった。そのせいか、先輩の言うことをあまり聞かない奴だったが、私の言うことはよく聞いてくれた。時々二人でマッサージをしていた。

最後のマッサージの日にも「先輩待っていますよ」と言ってくれていた。

朦朧とする意識のなかで、(あと少しだ、あと少しだ、浩二が待っている。頑張れ、頑張れ、負けるな、負けるな…)そんな言葉を頭の中で数え切れないぐらい繰り返していた。…ついにラストの橋を渡り、中継所が見える側道に入った。

かすかに手を振る合田が見えた。ボンヤリと霞んでいたが、何かを叫んでいた。私はタスキを外して本当に最後の気力を振り絞った・・・・・・・・・・・

そして、気がついたとき、私は後輩に抱きかかえられていた。

「渡ったか?」…・・・「先輩!渡りましたよ!」

・・・・・・…その瞬間…私の4年間の夢…・・・箱根が終った・・・

【執筆者】

脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、

81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)

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