あの日のように~エピソード6

黄色のタスキ

最後の箱根…いろんな人のいろんな想いを黄色のタスキが繋ぐ…10人のメンバーのうち、5人が4年生だった。往路は一区から四区まで。そして復路は九区の私だけだった。(今年こそ、みんなの汗と想いのこもったタスキを俺が最後に繋ぐんだ)毎日、そのことだけを思っていた。

一区はキャプテンの杉山だった。区間2位の快走で、二区・エースの「小さな巨人」高野に繋いだ。そして高野が先頭を追う。権太坂をすぎて戸塚の中継所まであと少しという坂で、ついに先頭を捕えた。その瞬間をTV(当時は1時間に5分程度実況があった)が大きく映し出してくれた。

「筑波が先頭に出ました。筑波大学が先頭です!」というアナウンサーの実況を我々は宿舎のTVで夢のように思って聞いていた。(あのガラクタのように言われたチームが・・・)ふと周りを見ると、駆け付けてきてくれた先輩たちが涙ぐんでいた…

しかし三区の中継所までに2位に落ちて、そのあとも横松、加藤と4年間ともに汗した仲間が必死に繋いだが、1人、2人と抜かれ、往路のアンカー前河がゴールしたときは5位だった。それでも信じられないような出来事だった。

その日の夕方、私は丹沢の宿舎を出て、中継所に近い3つ上の森先輩の家に向かった。万全を期すためだった。そして明くる朝早く1年前と同じように戸塚の中継所に向かった。風の強い日だった。(追風だ…)と思っていた。

8時過ぎのスタート、5位できていた。(さすがに5番目で走っていると、当時でも常に正確な情報をキャッチすることができた)六区も七区も5位できていた。(大丈夫だ。今年こそ駅伝になる)私は慎重にアップを進めた。

やがて中継予定の時間が迫ってきた。九区は復路のエース区間といわれるだけあって、各校ともかなり強い選手が揃っていた。しかし私にはそんなことは関係なかった。(黄色のタスキを死んでもつなぐんだ…二度と走れなくなってもいい。何があっても繋ぐんだ)と思っていた。

やがて、三つ下(一年生)の保田という後輩が「せんぱ~い」といいながらタスキを渡してくれた。一歩一歩調子を確かめながら最初の下り坂を走った。ジープから永井監督が「う一ん、ワキちゃん今日は調子いいよ」とおどけるぐらい快調だった。5㎞は予定よりも20秒近く速かった。10㎞も自己記録に近いタイムだった。自分でも調子いいと思っていた。監督は「ワキちゃん、今日は任したよ」と言いながら何も心配していない風だった。

私は横浜の中心部に向かう道を快調に進みながら、いろんなことを思い出していた。故郷のことや家族のこと、仲間のこと、苦しかったときのこと、悔しかったときのこと…そして今『筑波大学』と染め抜かれた「黄色のタスキ」をかけて5番で走っているということ。

(神様、仏様、もしこのまま快走させてくださるなら、俺はその場で死んでもいい・・・)

そんなことを本気で思っていた。

【執筆者】

脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、

81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)

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