あの日のように~エピソード3
予選会
二度目の予選会。私は慎重にスタートした。調子はまずまずだったが、膝のことや久し振りの公式レースだったのでいやおうなしに自重した。
前半を終って残り10㎞、少しずつぺ一スを上げた。1人2人と前を行くランナーを抜いていった。(大丈夫だ。調子は悪くない)私はさらにピッチを上げ、かなり上位まで進出することができた。(もう筑波の中でも10位ぐらいだろうなあ。あと前にいるのは…)と思いながら15㎞付近を快調に走っていると、前からチームメイトが落ちてくるのが分かった。「ファイト!頑張れよ」と声をかけて、並走しようかと思ったが、タイムレースなのでそうもいかず、もう一度声をかけて先を急いだ。
そのあとさらに1㎞ほど行くと、また一人友達を抜いた。かなり上位で走っていなくてはいけない選手だった。そしてしばらくして今度は先輩を…そのへんで私は一抹の不安にかられた。(いや、まさか…俺の調子がいいんだ)とそう思い直して、(とにかく1秒でも早く…)とラストスパートをかけた。ラストでもう一人友達を抜いた。1年生のときに一区を走った準エ一ス格の選手だった。
私は66分台の自己新で筑波の中では6位だった。ゴールしたときにはいろんなことが思い出されて、とてもうれしかった。(これで箱根を走れる!)と思った。ただ、タイムのわりに私の大学内での順位が良すぎるとは思ったが、(結構暑い日だったのでみんなタイムは悪かったのだろう…)と思っていた。
しばらく、ホッとしていたがすぐに緊張感が流れた。マネージャーの集計では際どいところだという話しが伝わってきた。(まさか…いや、そんなことは絶対ない)心のなかで何度も打ち消した。
やがて結果発表。7位だった。10人のトータルでわずか1分余りの差だったと思う。その場で泉田さんをはじめ4年生の先輩達が泣き崩れた。当時の私の日誌には、「長い長いトンネルをぬけて、やっと日の当たるところに出たと思ったのに…そこに『箱根』はなかった…」と記されている。
その夜、私達2年生20名近くは、誰言うとなく一人の下宿に集まった。夜中までいろんなことを真剣に話しあった。この3年間の成績が予選落ち・最下位・そして予選落ちだった。私達の大学にとってはその長い歴史のなかで一番弱い時期だった。しかも大学の中で最も弱い部活~筑波の三弱(その頃は他の部も陸上の他のパートも、ほとんどが日本のトップを競える状態だった)の三つのうちの一つに駅伝が数えられるという有様だった。
明くる日から、20~30kmの練習後に2年生全員で3~10㎞を走った。毎日毎日みんなで声をかけあって頑張った。夏の合宿もそれまでにない激しさだった。350mのグランドを120周というような練習のときは走りながら(自分たちに感動して)思わず涙が出そうになることがあった。秋に入っても毎週のように40Km走や30Km走をこなした。
「もうこれ以上出来ない」と思う毎日だった・・・
【執筆者】
脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、
81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)