あの日のように~エピソード2

エピソード2<知床半島の果てに咲く花>

すこし治りかけてはまた逆戻り、今度こそ膝を治したいと思いながら、ゆっくりゆっくりJogする毎日だった。体重が7~8Kg増えていたのでどうしても無茶はできなかった。二か月ほどかけてこの体重を落したが、今度は全く走れなくなってしまった。

今にして思えば貧血になったのだと思うが、どんな練習をしていても一人だけ離されてしまうし、ひどいときは女子にも抜かされた。夏がきてもいっこうに走れない。惨めだった。焦って猛練習をする。ますます走れなくなる。その繰り返しだった。

(俺はこのまま永遠に走れなくなるのではないだろうか)と真剣に考え出していた。

そんなある日、私が一人でJogをしていると、泉田という先輩がいつの間にか横に来て一緒にJogをしてくれた。私はこの先輩の姿勢が好きだったので、そのまま一緒に走っていた。

しばらくすると「おい坂、おまえ最近元気ないな」といってくれて、私が今悩んでいることをポツリポツリと話すと、先輩は走りながらしばらく考えて、

「なあ、坂、知床半島の果て…人が誰も行かないようなところにも咲く花はあるんだぜ。そして、その花は誰が見てくれるわけでもなく、ただ花であるという真実にしたがって咲くんだよ。・・・おまえが走りたかったら、走ればいいんだよ」といって去っていかれた。

私は頭のなかで何度も、先輩の言葉を反芻していた。(俺が走りたければ…誰のためでもなく、何のためでもない。ただ俺が走りたければ…)なんとなく何かが分かったような気がした。そして、8月末に千葉の館山に水泳実習に行った。

午前、午後と四時間以上の水泳のあとと早朝に練習した。それでも1日20Km以上は走った。疲れ切った身体だったが、朝の太平洋はとても大きくて、どこまでも続く砂浜を走っていると何か自分の考えていたことがちっぽけなような気がした。少しずつ力が沸いてくるようだった。

九月に入って大学に戻り、私は朝四時過ぎに起きて、新聞屋までの4㎞の距離を走って往復することにした。350~400部の新聞を団地で配っていたので2000段くらいの階段は上っていたと思う。オーバーワークにならないよう、もちろん、栄養面と故障には細心の注意を払いながら…最後の賭だと思って走っていた。

今までにない練習をしていたが、なぜか体調は少しずつ良くなってきて10月には予選会のメンバーに入れそうになってきた。11月3日予選会の日が目前に迫ってきた。

私は昨年の失敗は絶対に繰り返すわけにはいかないと必死だったし、何とか筑波で10位内に入って箱根を走ろうと思っていた。そのときの私の力はチーム内で12~13番というところだった。

当日は快晴だった。東京国際(当時は羽田)空港の近く大井埠頭という埋立地でレースは始まった。

【執筆者】

脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、

81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)

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