あの日のように~エピソード4

箱根駅伝

三度目の11月3日予選会。まさに背水の陣だった。先頭集団で走る2~3名を除いた選手を三つのグループに分けて、それぞれにぺ一スメーカーを付けるという作戦だった。私は三つ目のグループ~つまり大学内では8、9、10番目あたりを狙うグループを引っ張る役目だった。それは1年生や中距離出身の選手達を引っ張るという最も難しい役目だった。設定されたタイムと数秒と違わずに走ることを要求された。自分が死んでも(ばてても)他の選手は何としても設定されたタイムでゴールさせなくてはならなかった。

ゴールが見える16~17㎞まで機械のように設定ぺ一スを刻んだ。その時点で後ろには三人の選手が付いていたが、一人はもう余裕がなさそうだった。1番余裕のありそうだったあと一人の後輩に「行け!」と叫んで先に行かせた。そのあともう一人に「ついてこい!」と叫んでラストスパートに入った。必死に粘った。ほぼ全員が自己新で、私も64分台の記録で9位だった。チームは2位だったと思う。

初めて夢の箱根が現実になった。私は復路の最長区間である九区(当時は24.4㎞)を任された。何度か試走をして、3m以上高い1㎞毎の目標物を覚えた。そして翌年の1月2日、往路は順調に推移し、8位で終えることができた。もし9位内に入ると、監督が走って以来十数年ぶりの予選会脱出になるらしかった。そしてもう一つ、『黄色のタスキ』が最後までつなげるかどうか。その二つとも、私にかかっていると思いながら、明くる朝(三日)早く丹沢の宿舎を出発した。

8時過ぎ六区がスタートした。私も戸塚の中継所で、ラジオや先輩からの電話等でだいたいの状況をつかむことができた。8位のままで七区に渡った。しかし繰り上げになるかどうかは際どいところだった。八区は親友の加藤洋一だった。(洋一に渡るだろうか?)私は何としても黄色のタスキで走りたかった。アップの仕上げにかかる頃先輩から「坂、加藤にも渡ったぞ!」と声がかかった。(はたして俺まで渡るだろうか)とそのことばかりが気になっていた。

アップを終えて中継所に向かった。先頭が行き、次々と走者が過ぎていった。(まだか、まだか、洋一はやくこい・・・)7位の学校が行った。係員が繰り上げ用の茶色のタスキを用意して持ってきた。(洋一、はやくこい…)「繰り上げスタート1分前…並んでください」係員の声が響く。(ああ駄目か…)と天を仰いだ瞬間だった。50mほど手前の審判から「筑波来たぞ!」と大きな声が響いた。洋一が死にそうな顔でタスキをかざしていた。私は必死に走った。

しかしすぐ後ろから数人のランナーが追いかけてくるという最も嫌な展開だった。20Kmぐらい迄は何とか走れたが、そこから徐々にぺ一スが刻めなくなって21㎞すぎで東洋大学に抜かれた。しばらく付いたが、結局離されてしまった。監督の乗るジープ(当時は各校に監督車が付いた)から大声が響いてきた。「坂、何とかしろ!アンカーには米村(高校時代IH2位、国体優勝)がいるんだ。何とか繋げ!」(そうだ米村がいるんだ。何とか繋がなくては…)と思ったが、明らかに脚が動かなくなってきた。やがて鶴見の中継所が近づいてきた。

(ラストだ)と思ってとばしたが…… そこに  米村は  いなかった。

チームは8位の大健闘だった。みんなもOBも喜んでいたが、私はやはり悔しかった。

(俺がもう少し頑張っていれば、駅伝になったのに…)と思っていた。

【執筆者】

脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、

81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)

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