あの日のように~エピソード1

挫折

この便りもそろそろサヨナラの準備をしていこうと思っている。私は、最初に授業をするときに自己紹介をしていたが、その後半でいつも箱根駅伝のことを話していた。最後にふさわしいかどうか分からないが、少しはみなさんの正月の酒の肴になればと思いながら話していこう。

大学に入る年(高校3年生)の正月。私は大雪の中で屋根の雪下しをしながら、ラジオで箱根駅伝の中継を聞いていた。筑波はその年、予選会で落ちて出られなかった。

予選会というのは、当時はその年の本大会の10位以降のチーム6校と、出られなかった関東甲信越の大学が11月(現在は10月)に20㎞を14人(現在は10人)で走り、上位10名のトータルタイムで6位(同10位)に入れば正月の出場権を得られるという大会である。当時は40校ぐらいの大学が参加していた。

私は雪下しをしながら筑波の監督が解説をする箱根の実況を聞いていた。(待っていろよ。来年は俺がいくからな)と思っていた。

大学に入って1年目、私はIH優勝者や、入賞者が数多くいるなかだったが、何とか予選会の14人のメンバーに入れてもらうことができた。おそらく最後の1人2人は監督も迷って、(まあ滋賀の虎姫とかいう訳のわからん高校から来た元気のいいのを一度使ってみるか?)というぐらいの気持ちだったのだろう。

結果、チームは全体の4位に入賞して箱根の出場権を2年ぶりに確保したものの、私は気負いすぎて後半ばててしまい、チーム内12位で箱根出場に貢献することはできなかった。しかし12位だったので、箱根のメンバー15名(選手10名十補欠5名)には入れるかもしれないと秘に期待していた。数日後メンバーが発表された。

10人のメンバーの発表の後、補欠の発表があり、次か次かと思っているうちに15人の名前が読み上げられ、結局私の名前はなかった。それどころか連れていってももらえなかった。留守番(電話番)だった。

その時はとても悔しかったが、今から思えば「君は期待を裏切った。チャンスをものにできなかった」ということで、そのペナルティーだったのだろう。そしてチームも段突の15位(最下位)であり二重三重の屈辱を味わった。悪いことはさらに続く。

そのあと、私は何とかこの屈辱を晴らそうと猛練習を開始したが、忘れもしない1月26日の夕方、右膝の激痛に襲われた。2、3日は階段も上れないし、夜も何度も目覚めるほど痛かった。2か月以上全く走れなかった。練習に出るのも段々と億劫になった。生活も荒れたし、自分が段々ダメになっていくのがよく分かった。だけどどうしょうもなかった。

しかし、4月になり、2年生になるとすこしずつ走れるようになった。それと同時にこのまま終るわけにはいかないと思った。この頃から、新聞配達を始めた。

【執筆者】

脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、

81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)

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