陸上競技のルーツをさぐる61
「ハンマー投」の歴史<そのⅣ>
「ハンマー投」の技術向上に伴う記録向上の変遷
「ハンマー投」はかつて、芝生のフィールド内を助走しながら木製の柄の先に付けたハンマーを投げていたことは既に述べました。当時の投法では体格・体力自慢が力まかせに投げるだけで、記録は30m台に終始していました。1900年以降、ワイヤーの先端に「三角形のハンドル(握り部)」の金属を付けて回転する投法が可能になると、記録は一気に50m台へ飛躍します。
欧米各国で「ハンマー投」の普及が進み、1900年の第2回オリンピック・パリ大会で初めて正式種目に採用されました。この大会を含めて3連覇の偉業を成し遂げたのは、アイルランド系米国人のJ・フラナガンでした。1895年9月に初めて44m46の世界記録をマークし、1999年7月には初の大台50m01を投げました。ロンドン五輪開催年の1908年に樹立した52m98の記録を翌年には連続して更新し、7月には自己最高となる56m18の大記録をマークしました。
現存する写真で見ると、フラナガンのフォームは前世紀までの選手とは明らかに違いがあります。遠心力に負けないため回転時に膝を折り曲げ、腕もしっかり伸ばしています。身体の中心軸からハンマーまでの距離を遠くし、遠心力を最大限に生かす進んだ投法。現代のハンマー投げ技術に通じるフォームの原形を身に付けていました。
1911年には、彼のライバルで、1912年ストックホルム五輪金メダリストのM・マックグラスが(米)57m10と記録を伸ばします。13年に「国際陸連(IAAF)<=現・世界陸連>」が創設され、世界記録公認が始まります。「ニューヨークの鯨」と呼ばれた体重122kgの巨漢、アイルランド系米人のP・ライアンが8月にマークした57m77の記録が「公認第1号」とされました。
彼は土のサークル時代に釘のついたスパイクを履き、つま先でターンをして1920年の「アムステルダム五輪」で優勝し、重錘投」でも2位になりました。ライアンの記録は1938年8月にE・ブラスク(独)が58m13を投げるまで、実に25年間も更新されない偉大な記録でした。
1936年ベルリン五輪で金メダルを獲得したのは、地元のK・ハイン(独=56m49)でしたが、2位となったのは、同僚のE・ブラスクでした。2人は互いに記録を高め合う好ライバル。「ハイン・ブラスク時代」と呼ばれて、第二次大戦後まで活躍しました。
1948年にはI・メネト(ハンガリー)が、ハインの回転より上体が立ち気味のフォームながら、膝の送りを早くして回転スピードを上げる投法に成功。59m02を投げ、50年には59m88まで記録を伸ばしました。初めて60mの壁を打ち破ったのは、1952年7月に60m34の記録を出したネメトの同僚のJ・チェルマック(ハンガリー)でした。
世界の「ハンマー投」はその後、S・リストランドリ(ノルウエー)、M・クリボノソフ(旧ソ連)、H・コノリー(米)らの世界記録争いとなり、60年8月にはコノリーによって70m33にまで引き上げられました。
この間、「ロシア革命」を経たソビエト連邦が1956年の「メルボルン五輪」に初めて参加。素晴らしい体格に加え、先進的な科学的トレーニングに支えられた高い投てき技術を披露しました。ソ連選手や東欧圏の選手たちは投てき種目に限らず、陸上競技のあらゆる種目や他競技でも目覚ましい活躍を見せ、世界に大きな衝撃を与えました。
その一方、体格・体力に劣る日本選手には不利と思われていたこの種目で、174cmと小柄な菅原武男(リッカー)が限界とされていた「3回転ターン」を超える「4回転ターン」を完成。1963年6月に67m73の日本記録を樹立し、1968年メキシコ五輪ではその記録を伸ばす69m78をマークして4位に入賞します。3位と同記録、2nd記録の差で「表彰台」を逃しましたが、世界の強豪に割って入る見事な活躍でした。
この入賞を契機に、日大の後輩、室伏重信(大昭和)が71年4月に70mの大台を突破する70m18の日本記録を樹立。以後10回以上の日本記録更新をしながら、ミュンヘン五輪での8位が最高(当時は6位までが入賞)で、夢は自ら指導する息子の室伏広治(ミズノ)に託しました。
期待を背負った広治は、2001年エドモントン世界選手権で見事に銀メダルを獲得。2003年には日本記録を世界レベルの84m86にまで引き上げます。2004年アテネ五輪では悲願の金メダルを獲得。2011年テグ世界選手権で優勝し、2012年ロンドン五輪でも銅メダルを手にし、世界の頂点を極めました。日本選手権では空前の20連勝を果たしています。
女子ハンマー投の歴史
80mを超える豪快なアーチが魅力のこの種目に、女性が挑戦したいと思うのは自然のなりゆきでした。砲丸投・円盤投の体力・技術向上の一環で1960年~70年代には取り組む選手が世界的に増加していきます。1990年代に入って男子並みの公認種目になっていなかったのは棒高跳とこの種目でした。
規則改訂が行われたのは1993年8月のIAAF総会。「ハンマーの重量は4㎏(女子用砲丸と同じ)、ワイヤーの長さは1.175~1.215m、サークルの直径等は男子と同じ」と決まります。1995年1月以降の記録を公認し、2000年シドニー五輪から正式種目に採用されました。
世界では1992年にO・グゼンコワ(ロシア)が65m40を投げてリードしていましたが、「公認世界記録第1号」2000年6月4日に出した66m40。シドニー五輪ではK・スコウモリスカ(ポーランド)に敗れて銀メダルでしたが、クゼンコワは2004年アテネ五輪で念願の金メダルを手にし、第一人者の貫禄を示しました。その後も記録更新は続き、2016年リオ五輪優勝者のA・ヴォダルチク(ポーランド)がただ一人80mの大台を越える82m98まで記録を伸ばしています。
一方、日本国内では、すでに「砲丸投」の日本記録を出していた鈴木文(丸長スポーツプラザ)が、父で元日本記録保持者の鈴木規市氏、長兄の宗一氏の指導を受け、非公認ながら89年に61m20、92年3月のオーストリア選手権で58m66を記録しています。「公認日本記録第1号」は93年11月に投げた60m90。
その後、室伏重信氏の指導を受けた綾真澄(中京大)が2001年10月に64m43を投げ、翌年には66m27と相次いで日本記録を更新。このころ円盤投で力を付けてきた広治の妹、室伏由香(ミズノ)が参入し、2004年8月に67m77を記録します。この記録は15年以上更新されずに今日まで輝いています。
(以下次号)
写真図版の説明と出典
- 「五輪3連覇を成し遂げたJ・フラナガン(米=51m92)の「08年ロンドン五輪」での投てき」『An Illustrated History of the Olympics』Richard Scaap著(1995) P.64(Alfred A. Knopf社)
- 「36年ベルリン五輪」で地元での優勝を飾ったK・ハイン(独=56m49)の投てき」『Die Olympischen Spiele 1938 (In Berlinn und Garmisch-Partenkirhen)=Bad 2』(第11回・1936年ベルリン五輪公式記録集<独語版>)(1936年)(大会組織委員会編) (Herausgegebe vom Cigaretten-Bilderdienst Hamburg-Bahrenfeld)p43
- 「メキシコ五輪」で、日本人初の4位入賞を果たした菅原武男(リッカー)の投てき」『アサヒグラフ・増刊(メキシコ・オリンピック)』朝日新聞社(1968年)P.16
- 「日本人投てき界初の金メダリスト(82m91)に輝いた室伏広司の投てき」雑誌『月刊陸上競技(2004年10月号)』(kk陸上競技社<kk講談社>)(2004年)P.149
- 「アテネ五輪の女子ンマー投(74m92)で優勝のO・グゼンコワ(ロシア)の投てき」『同上書』(kk陸上競技社<kk講談社>)(2004年)P.171