陸上競技のルーツをさぐる55
「円盤投」の歴史<そのⅢ>
「近代五輪」草創期の「円盤投」の様子
1896年のアテネでの「第1回五輪」の大会ルールは、2㎏の円盤を2.5mの正方形の投てき場から投げるものでした。
優勝したR・ガレット(米)は事前にアテネへ赴き、本番で使われた円盤よりも重い古代競技に使われていた「鉄製の円盤」で練習を積んだので29m15の記録で優勝ができたと言われています。彼は「砲丸投」でも11m22の記録で優勝しただけでなく、走幅跳と走高跳でもともに2位入賞した万能選手でした。
1912年の「ストックホルム五輪」では、「円盤投」でも人間のオールラウンドな能力を評価する立場から、砲丸投と同様に「利き手」と「逆手」の記録を合計して順位を決める競技を行いました。この種目では、現在と同様の「利き手」による投てきで45m21の記録で優勝したA・タイペール(フィンランド)が、両手合計記録82m86(「利き手」44m68、「逆手」38m18)で優勝したとの記録が残っています。
「円盤投」が「IAAF」の下でルール化される以前の様子
今日行われている「重さ2g、直径22㎝、中心部の厚さ4.5㎝の円盤を使って直径2.5mのサークルから投げる」というルールは、1908年「第4回ロンドン五輪」開催にあたって決められた規格です。
1913年に「IAAF」が発足する際には、れまでは、円盤の重さ、投げ方、サークルの大きさなどは、国により、各大会によって、様々な形で行われていたので、統一されたものはありませんでした。
1900年の「パリ五輪」ではR・バウエル(ハンガリー)が36m04で優勝していますが、今日の「砲丸投」と「ハンマー投」と同じ直径7フィート(2.13m)のサークルから投じられたものでした。世界記録は1897年にC・ヘネマン(シカゴAC・米)の出した36m20。
「全米選手権」では1915年まで「7フィートのサークル」から投げていましたが、大きなサ-クルから投げれば好記録が出るのは当然のこと。1904年のセントルイス大会では同記録順位決定戦の末に39m28、06年のアテネでの10周年記念大会では41m46と伸びています。
08年ロンドン大会では40m89の記録で五輪大会3連覇の偉業をなし遂げたM・シェリダン(アイルランド系米=シェリダン弟)が、11年に2m50のサークルを使って43m08の記録を出しました。欧州ではヤルビネン(フィンランド)が、09年に「2m70の直径のサークル」から44m84という大記録を樹立しました。
1880年創設の「全英選手権(AAA)」に「円盤投」は採用されておらず、英国では「IAAF」の公認種目となったことを受けて1914年にようやく登場しています。継続的に実施されたのは20年代以降。陸上競技近代化の先頭に立っていた英国でも受け入れが遅れ、莉国発祥とされる「砲丸投」、「ハンマー投」に対して明らかに後発の種目でした。
古代競技形式の「円盤投」の消滅
1906年のアテネ10周年記念大会では古代競技を再現しようと、通常の「円盤投」とともに「バルビス」を使った「ギリシャ式円盤投法(ヘレニック投法)」が実施されました。08年ロンドン大会でも行われましたが、狭い台の上からターンを行わずに投げるため動きに制約が多くルールも複雑だったため、その後は行われなくなりました。
13年に発足した「国際陸連」は以後、「ヘレニック投法」を正式種目として認めなかったため、今日ではその姿を見ることはできなくなっています。
(以下次号)
写真の説明と出典
① 「第1回アテネ五輪優勝のR・ガレット選手(米)<記録29m15>)」『Athletics at the Olympic Games』Mel Watman編(1996) p8 (雑誌「Athletics Today」社 五輪百周年記念特集誌 Part Ⅰ)
② 「1908年のロンドン五輪で「ヘレニック投法」で投げるM・シェリダン選手(米)
『Athletics of To-Day (History Development & Training)』F.A.M.Webster著(1929) p288~289写真ページ (Frederick Warne & Co. Led London)
③ 「1904年記念大会と08年五輪に2連覇したシェリダン選手によるヘレニック投法の様子」
『The Forth Olympiad being the Official Report of the Games of 1908 Celebrated in London(第4回五輪報告書)』International Olympic Committee編 (1908)p97
④「1912年のストックホルム五輪における円盤投3態」
『Olympiaden(Olympiska Spelen Stockholm 1912 I Bild Och Oro<第5回ストックホルム五輪報告書>』Centraltry ,Stockholm発行(1912)