陸上競技のルーツをさぐる50
「砲丸投」の歴史<そのⅣ>
「7フィートのサークル」内での「砲丸投」記録向上を目指す技術改革の過程
1896年の「第1回アテネ五輪」前までの選手たちの「砲丸投」の写真や図版、技術指導・解説書を見ると、投てき場の7フィートの制限範囲内を歩いたり、小走りしたりする動作からステップを使って投てきをしていることがわかります。
「アテネ五輪」以降は、さまざまな投法が登場しますが、1950年頃までの約半世紀間に活躍した選手たちの投法は、横向きから立位でステップして進んで投げ出す「横向き投法」でした。
この投法は、ステップを踏んで前進しながら後方の膝を深く折り曲げ、できるだけ重心を下げることによって首の横に保持した砲丸の位置を下げ、立ち上がりながら腰の回転によって一気に突き出す投法でした。
この時代は、前回写真②のように、五輪3大会で大活躍したR・ローズ(米国)や30年代に活躍したJ・トーランス(米国)など、日本の大相撲の幕内力士並みの身長195cm、体重130㎏もある巨漢の選手たち優位を占めました。
高い発射点、重い体重を砲台とし、腕力で砲丸を投げ出して、40年代までに17m台の記録を出す水準に到達しました。
第二次大戦以降は、C・フォンビル、J・フュークスらの米国選手たちが、巨体に加えて強い脚力を使って戦前の選手以上に深く沈み込み、砲丸の弾道の移動距離(軌道)をさらに伸ばして記録を18mに近付けていきました。
P・オブライエン選手(米)の「後ろ向き投法」の出現
その後、P・オブライエン(米・南カリフォルニア大学生)が約100年間、誰も考え付かなかった「後ろ向き投法」を披露。
52年ヘルシンキ、56年メルボルン両五輪で金メダルを獲得するとともに、世界記録を再三書き換えました。
18m00に世界記録を乗せたのは53年5月。
以後、3年半の間に記録を19m25にまで伸ばし、「砲丸投」に画期的な技術革新をもたらしました。
彼の投法は、60年を経た今日でも日本の一流選手や若い選手たちが用いています。投射方向を背にし、膝を深く折り曲げた姿勢からグライドして進んで「構え」に入ります。
フュークス(米国)などの「横向き投法」と比べると、構えに入った時は上体が投てき方向に背を向けたままで、肩の内側に保持された砲丸はさらに遠く深い位置に置かれていることがわかります。
オブライエンは、巨体ながら100mを10秒台で走ることが出来る脚力があり、深く低い位置から一気に突き出すので、砲丸の軌道はより長くなりました。
フィニッシュでは肘を一杯に伸ばした長い腕の働きで、砲丸を押し出す力はさらに強くなり、当時としては考えられないほどの好記録を生むことが出来たのです。
その後、70年代には「円盤投」の技術からヒントを得た「回転投法」が出現します。
制限されているサークル内とはいえ、首元に砲丸を保持した状態で身体の回転の加速とともに、砲丸の軌跡は以前の「後ろ向き投法」に比べて、ほぼ2倍近くなることから、記録は大幅に向上し、今日では五輪、世界選手権、日本選手権でも多くの選手がこの投法で記録を伸ばしています。
現在の世界記録は1990年5月にR・バーンズ(米国)が記録した23m12です。
彼は88年ソウル五輪で2位となったあと、薬物違反で2年間の出場停止となり、8年ぶりに出場した96年アトランタ五輪では金メダルを獲得しました。
その後、29年間も彼の記録は破られていません。
この種目は今後、限られた「サークル」から重い砲丸を投射するための筋力増強が記録向上の主眼となるため、「薬物使用」の誘惑に負けずに、どれだけ技術革新が図れるかが課題となるでしょう。
<以下次号>
写真の説明と出典
- 「後ろ向き投法」の先覚者のP・オブライエン<サークル内は土製でありスパイク・シューズを履いている点に注意>」『Das Grosse Buch der Olympischen Spiele』(1995)p179 Christian Zenter (Copress Verlag Gmb H. Munchen)
- 「初期の回転投法」『(雑誌)陸上競技マガジン』(1974年5月号)p24 (陸上競技マガジン社)
- 「約30年間破られていない世界記録を持つR・バーンズ選手(於;1996年アトランタ五輪時=21m62)」『アトランタ・オリンピック総集編(朝日グラフ増刊号)』(1996)p72(朝日新聞社)