陸上競技のーツをさぐる49

「砲丸投」の歴史<そのⅢ>

「砲丸投」ルールの確立に至る過程

近代陸上競技が始まった頃には、必ずしも均一な重量・大きさを備えた砲丸で競技が実施されていたわけではなく、例えば1880年の「第1回英国アマチュア選手権大会」では18ポンド10オンス(=8.455kg)の砲丸が用いられました。

この時の優勝記録は10m69で、翌年からは「16ポンド」に統一されて今日に至っています。

投てき場については、今日では直径7フィート(2.13m)の「サークル」から投げていますが、1866年の大会が始まった頃の英国各地の学校などでの競技会では、「7フィートに限って助走が許される」とのルールがあり、この長さの範囲なら足を踏みつけながら「小刻みな助走」を行って投てきをしてもよいことになっていました。

その後、1880年に「英国陸連(AAA)」が誕生した時、

  • 肩の後方から片手で投げる
  • 投てきの瞬間、もう一方の手を添える「フォロー」は認めない
  • 一辺7フィートの「正方形」の囲いの中から投げる
  • 重さ16ポンドの砲丸を投げる
  • 投てきされた距離の計測は、落下点から囲いの前方の線までの垂線を測る
  • 投てき場の垂線を踏み出したものは、無効試技とする

というルールを確認して、大会を行うこととしました。

このルールはたちまち英国全土に普及していきましたが、古い伝統を重視するケンブリッジ大では、81年になっても助走範囲として「10フィート(=3.048m)」までを認めていました。

 

投てき条件の変遷

英国が、一辺7フィートの「正方形」の投てき場から投げることになっていたのに対し、米国では1867年以降「全米陸上競技連合(AAU)」の選手権と「全米学生選手権」での砲丸投は、重さは英国と同じ16ポンドのものを使いながらも、前方に高さ「4インチ(10cm)」、幅「4フィート(1.22cm)」の「足止め材」を置いた直径7フィートのサークルから投げていました。

英国式の「正方形」と米国式の「サークル」からの投てき条件を技術的な側面からみると、投てき後の動作は米国式の方が有利で、1896年の「第1回アテネ五輪」の砲丸投でも、投てき場は現行と同じサークル式が採用されていました。

わが国における明治期の砲丸投は、1883(明治16)年に英国から招かれたストレンジ氏が著したスポーツ普及・指導書の『Outdoor Games』のなかで、「16ポンドの砲丸をラインから投げる」と紹介したものが基準となり、以後の競技会で実施されました。

この方法は、彼の母国の英国式であったことがうかがわれます。

 

両手で投げた「合計記録」で競う「砲丸投」

第1回アテネ五輪では「利き手記録」でしたが、1912年の「第5回ストックホルム五輪」では、オールラウンドな身体能力を評価する古代ギリシアの競技精神を尊重し、「利き手記録」と「逆手記録」の合計で勝者を決定するという方式を採用しました。

しかし、この方式は第1次大戦を挟んで1920年に復活した「第7回アントワープ五輪」以降から姿を消します。

20世紀以降の「砲丸投」のルールの変更

五輪種目に登場以降、「砲丸投」は長期間にわたって、主として競技場内のフィールドに設営された芝生または鉄製のフレームで囲われた土のサークルの中から投げられていました。

しかし、土のグランドで雨天の場合、投てき順序によって条件が変わり、ぬかるみでスリップする事故も発生。

国際陸連では1957年以降「コンクリートで仕上げた投てき場」から投げるようルール改正されました。

筆者は投てき選手ではなかったですが、学生時代に投てきパートの先輩たちがセメントや砂利等を購入し、練習場のサークル作りをされている姿を目撃しています。

 

砲丸の材質についても、より良い記録を生み出すために様々な工夫・改良が加えられてきました。

かつては鉄製または真鍮製に限られていましたが、今日では大きさ(男子用直径110~130mm、女子用直径95~110mm)の条件を満たせば、鉄以外の真鍮などの金属を中心部に挿入して小型形状化し、持ちやすくすることも許可されています。

(以下次号)

写真の説明と出典

  • 「1891年、パブリック・スクールの生徒たちの前で、正方形の投てき場で「砲丸投」の模範演技をするバリー博士(<正方形の四角い投てき場に注意>)」『Athletics』(1904)p170 Montague Shearman<初代英国陸連会長>著(Longmans, Green & Co.)
  • 「1904・08年の五輪で「砲丸投」に2連覇した巨漢R・ローズ選手(米国)<12年の大会は2位>」『Olympiaden (Olmpiska Spelen I Stockholm 1912 I Bild Och Ord Centraltryckriet, Stockholm  』p96 (ストックホルム五輪組織委員会編)(1912)
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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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