陸上競技のルーツをさぐる48

「砲丸投」の歴史<そのⅡ>

「砲丸投」のもう一つの起源説

1928年アムステルダム五輪十種競技銅メダリストで、米国の諸大学で指導歴のあるK・ドーテー氏は、著書『陸上競技全書(Track and Field Omunibook)』(1971刊、208頁)で、前回で述べた二つの「砲丸投」の起源説とは別の面白い説を紹介しています。

 

それによると、16~17世紀頃のマゾヒスティックなピューリタン(清教徒)の刑務所看守は、罪人に「枷(かせ)」を付けた状態で、「16ポンド(7.25kg)の鉄球を「直径7フィート(2m13)」の円内から「前方65度の角度内」に投げさせた。

投げた後は円内後方以外から出ることを認めず、肩を使わずに「押し出す動作」だけで投げさせ、事前に決めておいた距離を投げ者だけを「自由の身」にしたという。罪人たちは工夫を凝らし、力と技を身に付けてこれに挑戦し、これが今日の「砲丸投」に繋がったというのです。

投法としては、回転をして投げても砲丸は遠くまで飛ばず、一直線に投げた方が遠くに飛ぶことに気が付き、罪人たちはこの方法を使って投げたのだそうです。

 

現在の国際陸連の競技規則では、砲丸投は野球やハンドボールなどのボール状のものを投げるように肘を伸ばしてオーバーハンドで投げる「throw」を禁じて「put」しなければならないとしています。

その意味で、ドーテー氏の記述は大変興味深いものがあります。

 

競技化される以前の「投てき競技」

18世紀末の英国の有名な詩人スコットは、古い民話をもとに著した『湖上の貴婦人(The Lady of the Lake)』で、ダグラスという男が重い石を104フィート(=31m72)も投げて敵を打ち破ったと記述しています。

14世紀の英国王エドワードⅢ世は、国民が「石投げ競技」に夢中になって弓の練習をおろそかにしたため、「投石競技禁止令」を出したことで知られています。

しかし、「投てき禁止令」が出た後も「石投げ競技」の人気は衰えず、多くの人が「投石」に興じたというのです。

 

一方、15世紀の英国王ヘンリーⅧ世は庶民に対しては「禁止令」を出しておきながら、王の威厳を保つために若い頃には自らの身体を鍛えるために「重錘(ハンマー)投」や「丸太投げ」などに励んだことも有名です。(詳細はハンマー投の項で)

 

大砲の弾丸を使った「砲丸投」

近代に入ると戦場では大量殺戮用に鉄製の「砲弾(丸)」が使用されるようになり、重さ16ポンドの弾丸が石塊にとって代わられました。

現在の男子の砲丸の重量「16ポンド」は、英国で古くから「1ウエイト」という重さを計る単位。

今日でも体重の単位として用いられる「1ストーン(14ポンド=6.35㎏)」とは区別されています。

「重量投(weight putting)」は、16ポンドの重さの石塊または砲丸を投げることを意味していました。

 

近代陸上競技の黎明期における「砲丸投」とその競技方法

近代の競技会に「砲丸投」が登場した最も古い記録は、1860年にアイルランドの首都のダブリン大学で行われた競技会です。この大会でも16ポンドの鉄製の砲丸が使用されました。

64年に始まった「オックスフォード大対ケンブリッジ大対校戦」でこの種目が導入されたのは、翌年の「第2回大会」でした。

まだルールが確立されておらず、両大学内でそれぞれに行っていた方法で投げ合い、両方の方式の記録を合計して順位を決めました。

ケ大では今日のルールと同じ一方の「利き手」で投げて順位を決める方法を採用していましたが、オ大では投げ出す瞬間、砲丸を持った方の手の甲や手首などを反対の「手の平」で押して投げること(=フォロー)も認めていました。

記録はオ大方式の方がよかったため対校戦ルールの統一が必要となり、65年の大会に限ってケ大の方式で投げた記録とオ大の方式の記録を合計して順位を決めました。

 

この時の記録は、ケ大のG・エリオット選手がケ大方式で9m51、オ大方式で10m32を投げ、合計記録19m83で勝者となりました。

この試合で最も良い記録を出したのはオ大のフォーンズ選手の10m73。

今日の大会ならフォーンズ選手が優勝者になっていた。

投てきの瞬間に両手を使うオ大の方式が有利であることが分かり、翌66年大会からはケ大方式、つまり今日と同様の「利き手」のみで順位を決める方式に統一されました。

 

この方式が定着した「砲丸投」の記録はその後、年々更新されました。

一方で、左右両手の記録を合計して勝者を決める方式も残ることになります。

バランスの取れた「人間のオールラウンドな身体能力」を高く評価する思想でしょう。

単一種目の勝者以上に混成競技(五種競技)の王者に高い評価を与えたのが古代ギリシアの「オリンピア競技」。その中核をなす考え方でもあったのです。

以下次号

写真の説明と出典

  1. 「1860年代、オックスフォード対ケンブリッジ大学対校戦で「砲丸投」を行っている想像図」『(新聞)The Illustrated London News 1867年4月20日号(水彩絵具で着色)』1995年秋、ブライトン郊外の古物商で筆者が購入したもの
  2. 「1800年代の「砲丸投」の様子<選手の足元の投てき場の直線ラインに注意>」『Athletics and Football』 Sir. Montague Shearman著(1987) p249 (Longmans. Green. & Co.)
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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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