陸上競技のルーツをさぐる41

「走幅跳」の歴史<そのⅥ>

「両足踏切」による走幅跳と前方宙返り跳躍による「片足回転式走幅跳」について

走幅跳を志す多くの先輩や研究者が、1センチでも記録を向上させようと今日まで様々な工夫を凝らしてきました。その一例として「回転式走幅跳」への挑戦を紹介し、「走幅跳」の項のまとめとします。

 

走幅跳はルール上、「片足踏切に限る」と決められています。そこで、跳躍種目で「両足での踏切」を行うとどのような動作となり、どんな記録が生まれるのか。非常に興味あるテーマです。

 

立幅跳は片足ではなく、両足で踏み切った方が記録も良く、運動動作的にも自然です。そこで、助走をつけて両足で走幅跳・走高跳の踏み切りをして記録を向上させようと考え、試行したとしても何ら不思議ではありません。

 

この動作は、体操競技の跳馬や床運動のなかで演じられている「前方宙返り」でしばしば見かけられます。特に跳馬ではバネのある「踏切板」を使うと、身体全体が3m近く浮き上がり、かなり高い「跳び箱」を飛び越えることができます。

 

床運動でもトップ・クラスの選手なら前方宙返りでほぼ身長の高さに相当する1m50~80程度、距離では4~6m前方に跳んでいます。従って、両足踏切で走幅跳・走高跳の世界記録を上回ることは少々困難であると理解できます。

 

そこで考案されたのは、片足または両足踏切による「後方宙返り」の動作であったと思われます。1968年メキシコ五輪で初めて世界へ披露された走高跳での背面跳は、まさに、「片足踏切による後方宙返り」であった。宙返りを利用した跳躍が記録向上に大きく寄与するはずと分かります。

 

今日では走高跳では、<有利になる可能性のある>「両足踏切」はルールで禁止されていますし、走幅跳では<トンボ返り(宙返り)による>跳躍は禁止事項になっています。

 

後者の場合は、ルール上から規制のなかった時代にはこれに果敢に挑戦した選手が出てきました。ラゲルクイスト(独)は1973年、「片足踏切」による「回転式前方宙返り」による跳躍を「ドイツ第2TV」の放映のなかで7m近くを跳躍して多くの人を驚かせました。

 

これが契機となって、計測のために着地場が「砂場」を変える事が出来ない以上、「危険だが革命的な跳び方」であるが「発想の転換の一つの跳躍法である」という事で、翌73年3月には、日本の陸上競技専門雑誌で分解写真付きで紹介されました。また、当時、この跳び方は、北欧諸国、旧ソ連、米国などでも試みる選手が出現して、「この跳び方を使って安全に着地をマスターすることが可能なら、60cmは記録が伸びる」といわれ、この方法について早速研究が始まりました。

当時の雑誌を見ると、『陸上競技ダイナミック(Track and Field Dynamics)』の著者T・エッカー氏が研究に取り組み、理想的な面からと危険防止を念頭に入れた実際の場面からの助言を行っていますし、日本の跳躍界の大先輩である織田幹雄・田島直人らの「メダリスト」諸氏も、これについてコメントを寄せておられます。

 

日本ではこれを受けて、74年4月に神戸の競技会で、当時、走高跳を専門にしていた宮崎好幸が、この跳躍法に果敢に挑戦、「国内初のウルトラC」といわれて6m51を記録したことが紹介されています。その後、同年5月18日に竹之内新一が6m91を、7月14日には岸一正が7m10を跳びました。

 

一方、米国では5月17日にJ・デラメアが7m93をマーク、練習中には8m50を跳んだとの報告もされました。しかし、走幅跳の場合は跳躍距離を計測するために着地場としての砂場が必要で、走高跳のような安全なマットが使用できません。

 

ひとつ間違えば回転不足で後頭部や背中から砂場に落ち、脊髄を損傷する恐れもあります。経験を積んだ選手が試合の場で行うならいざ知らず、世界中で幅広い年齢の者が安全に練習を行える動作でなければ「国際的なルール」として認可するのは困難です。

 

1974年8月ローマでの国際陸連総会では、技術委員会からの具申を受けて「この跳躍方法は、危険と走幅跳の精神を逸脱している」という二つの理由から、当面2年間「禁止」の措置をとり、76年のモントリオールでの総会で最終結論を出すことになりました。日本では75年度から規則上正式に「禁止」としました。

 

しかし、その後もエッカー氏や岡野進氏らは、技術的に見て「空中で回転することによって、踏切で作られた自然の旋回力が生かせ、着地も普通の跳び方と変わらない」方法で、理論的にも記録向上に大きな力を発揮する方法だと主張しました。識者の意見、選手・コーチの意見は賛否両論あるなかで、最終的に「危険な技術」であるとされ、この跳躍法は闇の中に消えていきました。

以下次号

写真図版の説明と出典

  • 「1973年、世界で初めて出現した頃の米国選手の連続写真」
    『雑誌「陸上競技マガジン」1974年5月号』(1974)写真頁(陸上競技マガジン社

 

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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