陸上競技のルーツをさぐる12

障害物競走とハードル競走の歴史<そのⅥ>

オリンピック種目として登場する前後の「110mH競走」

「110mH」は、クーベルタン男爵が中心になって1896年に開催された第1回オリンピック大会の主会場における陸上競技種目のなかでも花形種目のひとつでした。それは、短距離でありながら「走」だけでなく、ハードルのクリアランス技術獲得のための要素が山のようにあり、選手たちには挑戦すべき課題が続々と出てきます。さらに、ハードルの「道具としての改善・改良点」も多くあって、目標とすべき克服課題が常に出てくる種目だからでした。

写真①

アテネでの第1回オリンピック大会が開催されて以降、120年の歳月が流れましたが、この間、「クリアランス」+「走」技術の飛躍的向上は目に見える形で進んだ種目の一つと言えるでしょう。さらに、レース毎に絶対王者といえども障害物のために失格や転倒もあり得る予測不可能な種目であることも、観衆が魅入られる要因でした。

英米両国における選手権大会、当時の選手層の中心だった学生対校戦などの初期の記録は前号で紹介済みですが、1870年代以降には16秒台へ、95年の「AAA」でついにロンドンACのG・ショウ選手が15秒6にまで記録を向上させました。

96年のオリンピック大会に登場してきたのは当然のことだったといえるでしょう。

アテネの主競技場は、古代の競技場に似せた縦長のグランドでトラックの直線部分が5コースだったためレースは100m、高さ「1mのハードル」を8台置いて実施。予選は2組2着入選、決勝は4名で行う予定が、進出者4名中2名が棄権し、T・カーチス選手(米)が17秒6の記録で優勝しました。
1900年のパリ大会以降では、英米で行っている「120ヤードH」を10台目からゴールまでの差32cmを微調整して「110mH」とし、A・クレンツレーン選手(米)が15秒4で優勝しました。

写真②

その後、1912年に「国際陸連(IAAF)」が設立され、陸上競技におけるすべての距離を「メートル制」の規格に合わせて統一したために、この種目の正式な国際規格はすべて「110mH」となり、オリンピック大会とともに今日に至っています。

 

「ハードル」の改良の過程と記録の向上

すでに見てきたように、主として放牧場からそのまま持ってきたような「柵」を直接グランドの芝生に埋め込んで使っていた当時の「ハードル競走」は、1台ずつ分かれていなかった。現在3000mSCで用いられている障害のように、トラックの両端に杭を打ち込んで横木を置くかロープを張るかしたものを、数人の選手が飛び越すものでした。

しかし、横一線に並んだ選手たちが一斉に飛び越すので、互いに手や足が当たることも多かった。先頭走者がハードルを倒した場合には、遅れてきたものが有利になることがあり、1870年代になると同じ埋め込みの形を取りながらも「ハードル」を独立させ、「ひとり用」に改良されていきました。
1890年代末になると、米国では写真①のように、材木を切る「木挽き台」からヒントを得た練習用に移動可能な木馬のような「4本足ハードル」が出現しました。ただ、固定することが主眼だったためハードルにぶつかっても倒れず、選手が転倒して負傷者が続出しました。練習用として運搬するには重すぎるという欠点も残していました。

20世紀に入ると「4本足ハードル」を軽量化しようと「逆T字型」(写真②参照)のハードルが考案されましたが、これも「逆T字」が災いしてハードルは簡単には倒れず、問題は残りました。

1920年代後半になると、米国のH・ヒルマン氏が今日のハードルの原形ともいうべき木製の「L字型ハードル」を制作しました。さらに33年5月には同じ米国のF・オースチン氏が、高・中・低と各ハードル競走の規格に合わせて高さが変えることができ、高さによって「重心の位置も変えられるハードル」を考案して特許を取得しました。このハードルは上部の横木の部分に3.6kg以上の力が加わると前方に倒れるので、選手たちの心理的負担は一気に軽くなりました。練習量が増えるのにも比例して記録も大幅に向上。世界記録は36年夏のべルリン五輪後の記録会でF・タウンズ選手(米)が出した13秒7にまで短縮されました。これは約80年後の日本高校記録を上回っている記録です。

また、今日では想像もつかないことですが、上記の頑丈で「倒れないハードル」を使用していた第二次大戦前までの古いルールでは「レース中、ハードルを3台倒すと失格」という規則が、世界中に適用されていたのです。

大戦後になると、横木以外の材質が木製から鉄製に変わり、56年にはD・ホルメス氏が「折りたたみ式」の特許申請をしました。このハードルは練習場でも気軽に使用できるようになり、ハードル競技の普及やクリアランスの技術向上に大きな貢献をしました。走能力の飛躍的な向上とともに、世界記録は現在12秒80にまで短縮されています。

(以下次号)

図版の説明と出典

① 「1895年の全米学生選手権大会で四本足ハードル使用の120YHの様子」

『Track Athletics in Detail』Interscholastic Sport編P35 (1896年 Harper & Brothers Publishes )

②「1908年ロンドン五輪での逆T字型ハードル使用の110mH決勝の様子」

『The 4th Olympiad being the Official Report of the Olympic Games of 1908 Celebrated in London(第4回ロンドン五輪公式報告書)』同組織委員会編 P65 1908年 The International Olympic Committee)

③「1933年5月23日、F.オースチン氏にハードルの特許が認可された書類」

『The Hurdler’s Bible(第2版)』W・Loss著 P126 (A Complete Manual for Coach & Athlete)

④「1957年9月3日、D・ホルムズ氏にハードルの特許が認可された書類」『同上書』P127

⑤「1962年3月6日にR・ゴエッティ氏にハードルの特許が認可された書類」『同上書』P

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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