箱根へ挑んだ筑波大100年の系譜(3)

シード常連の筑波時代

1980年代の筑波大はメキシコ五輪800m代表の永井純が指導、スカウトに腕を振るった最盛期だった。河野匡、合田浩二、米村雅幸らインターハイ優勝者が続々と加わり、80年の56回大会の8位から6年連続でシード権を確保。高い意識の選手が多く、毎月の練習計画も学生のスケジュール委員会が作成した。月1回は永井との個人面談が組み込まれ、各自のトレーニングプランも尊重された。

59回大会から6区の山下りを3度(61回大会は3区)走った河野匡

 

週1~2回のインターバル・トレーニングでスピードを養う一方、故障を避けながら距離を踏む泥臭い練習もこなした。グラウンド南側の洞峰公園に5.3kmの周回コースがあり、ループ道路も当時は車が少なく走りやすかった。主力級10人が桐萌塾(民間アパート)で交代での自炊生活。米の差し入れもあってひもじい思いはしなかったという。

 

コース下見などではOB宅で宿泊・栄養補給させてもらった。レースの報告、分析を手書きの新聞「闘走」にしてOBへ手渡し、支援を得る努力もした。

 

この時代のメンバーには、国内のトップランナーが多い。56回大会から山下りの6区を3度任された河野は、在学中の82年日本選手権3000m障害で優勝し、同年のニューデリー・アジア大会でも金メダルを獲得。大塚製薬では指導者として頭角を現し、現在は日本陸連の

長距離・マラソンディレクターとして男女マラソン界をリードしている。

82年ニューデリーのアジア大会で金メダルを獲得

 

「死ぬまでに一度は筑波が箱根を走る姿が見たい」という河野は後輩たちへ「当たり前のレベルを上げること。戦う準備をしっかりやること」とメッセージを送っている。

日本マラソン界のまとめ役として活躍する河野匡

 

81年57回大会からの4大会で、6位(8区)3位(7区)1位(3区)3位(3区)と歴代でも最も安定した成績を残した保田教之(卒業後は雪印入り)は、大会1週間前の調整期間中の気持ちが大事だという。「マイナス思考にならず、ある意味”開き直ること”が大切」と指摘。それが「本番で今ある力を十分に出し切れる選手」になるための秘訣と、後輩へのリレーメッセージで述べている。

59回大会7区の区間賞を筆頭に歴代でも最も安定した成績を残した保田教之

 

85年61回大会の2区で区間賞を獲得した渋谷俊浩は、雪印入り後の86年びわこ毎日マラソンに優勝。2年後の福岡国際マラソンでは、当時の世界最高記録保持者ベライン・デンシモ(エチオピア)を破って2時間11分04秒で優勝を果たす。このレースでは、デンシモが競技場入り口前でコースを間違えて遅れ、競技場内でいったんは追い付いたが、ラスト100mで渋谷が鮮やかなスパートで抜け出した。「優勝は予想もしていなかったので、いまでも信じられない。6、7割の練習しかできずスタミナに不安があったが、いちかばちかでスパートを掛けた」と大金星に自分でも驚いていた。

 

同じ61回大会では矢野哲も7区で区間賞を獲得している。

61回大会7区で区間賞を獲得した矢野哲

 

低迷から復活プロジェクトへ

13位だった1989年を最後に、90年代からは予選会を突破できない低迷期に入る。94年の70回記念大会には推薦で出場したものの最下位の20位。メンバーもそろわず、箱根は遠い存在になっていった。

 

唯一の輝きは2004年の80回大会。関東以外の選手も加えた日本学連選抜の5区で出場した鐘ケ江幸治は、16番目でたすきを受けるとエネルギッシュな走りで次々と前の走者を抜き去った。「タイムを考えずに前を見て走った」結果、芦ノ湖のゴールへは7番目で到着し、当時の5区最多となる9人抜きの快走で区間賞を獲得した。創設されたばかりの最優秀選手賞「金栗四三賞」を受賞。大先輩の熱い思いに応える見事な走りで、筑波勢としては85年の渋谷以来19年ぶりの区間賞だった。

80回大会日本学連選抜の5区で区間賞、金栗四三賞を獲得した鐘ケ江幸治

 

鐘ケ江は理工学群工学システム学類3年だった前年も関東学連選抜で5区を走って区間8位。実績を買われて2年連続の山登りだったが、このレースを最後に競技生活を引退し、卒業後は「陸上と同じくらい飛行機が好きだった」という夢を叶えて整備士として全日空入りした。「日々の授業やネットに出てくる話題など身近なところに、自分を高められる材料が転がっている。アンテナを高く張り、自分なりに工夫し、他大学にない特徴を作っていってください」と激励のコメントを送っている。

 

2007年にも理工学群社会工学類3年の大城将範が学連選抜の4区を走った。当時は長距離選手の入部も減ってじり貧状態だっただけに「選ばれたことは純粋にうれしかった」そうだが、16位に終わった成績については「もっと走れたかなという気持ちはあるが、ちょっとでもアピールできたかなという思いもあった」と話す。

 

卒業年の2008年東京マラソンでは2時間37分台の自己最高をマーク。その後も時々レースに出場しているという。「自分が走ってから10年以上も後輩が走っていないことにはびっくりしている」そうで、12年ぶりに箱根路を走る相馬選手へエールを送っていた。

 

大城を最後に選抜チームから声が掛かることもなくなった。そんな閉塞感に風穴を開けようと、大学は2011年に「筑波大学箱根駅伝復活プロジェクト」を立ち上げる。成果が上がらない中、2015年に駅伝監督に就任したのが86年から4年連続で母校のタスキを担った弘山勉だった。

 

弘山は卒業後に資生堂入り。90年の別大マラソンで3位に入って注目され、同年の福岡国際では日本選手トップの2時間11分37秒(自己最高)で2位に入賞した。瀬古、宗兄弟らの次代を担うホープと目されたが、その後は故障もあって不本意な現役生活となった。引退後は資生堂監督を務め、独自のトレーニング理論で妻の晴美を3度の五輪代表に送り出した。育成手腕には定評があり、筑波の指導者としては久々の駅伝スペシャリストだった。

64回大会、65回大会で2区を走った学生時代の弘山監督

 

復活プロジェクトは「金栗のDNA」を受け継ぐ筑波大らしい学生育成の場ととらえ、文武両道の「スカラー・アスリート」輩出を目指すことを打ち出している。高い競技力と倫理観、スポーツ愛好精神に加え、深い教養と知的探究心をもって自身の能力開発を進める。将来的にはその経験を生かして社会に貢献できる人材を送りだそうという理想を掲げている。

弘山勉駅伝監督

 

監督就任後の弘山は、いち早くホームページを立ち上げて理念を広く訴える一方、日々の実践を詳細にリポート。ネット情報に敏感な若い世代、特に地方の進学校で長距離を目指す高校生に響く内容だった。16年には5000mで14分台の新入生が5人入部し、翌年には13人中9人が14分台と好素材が集まり始めた。高校駅伝の名門、西脇工(池田親)や佐久長聖(相馬崇史)からも逸材が加わった。

 

しかし、予選会の壁は想像以上に厚かった。監督就任前年は21位だったが、15年はタイムを短縮したものの22位へ順位を落とす。翌年は力不足のまま予選会突破ラインを目指して飛び出し、24位と順位も後退した。昨年は10時間23分43秒と大幅に記録を短縮して19位に浮上。ハーフマラソンに距離が伸びた今年は17位と着実に順位を上げたとはいえ、突破ラインには8分32秒及ばず、1人当たり1分近いタイムの短縮が求められる。

 

そんな中で、箱根への手応えを感じさせる朗報がある。2年生の相馬が関東学生連合チームに選ばれて本大会の舞台を踏むことになった。予選会全体67位で連合チーム7番目のタイム。昨年も晴れ舞台のメンバーに選ばれながら、最終調整で故障が出て代表を辞退した。たくましく成長した今季、復活を目指す筑波魂を駅伝ファンにアピールする。

関東学生連合チームで筑波勢では12年ぶりに箱根路を走る相馬崇史(佐久長聖高)

 

弘山の強化方針は、中距離のスピードを磨くことで効率の良いフォームを身に付け、長丁場のレースにつなげようというもの。昨季は小林航央が1500mで日本ランキング1位の3分41 秒81で走り、森田佳祐は5000mで大学初の13分台、13分51秒97をマークした。着実に成果は上がりつつあるが、20kmを走り切るスタミナ養成は道半ばだ。予選会で力を発揮し切れない「勝負弱さ」も克服できていない。

 

長距離パートは現在45人を超える。プロジェクトが好循環してきた結果の大所帯だが、それに見合うサポート体制が追い付かない。監督1人ではタイムキーパー、飲み物の手渡しもままならなかったが、今春から2名のスタッフが加わって練習効率がアップした。

 

練習のベースになる食事に関しては、管理栄養士とスポーツ栄養学専攻の大学院生らが週3回の食事を提供してくれている。学生たちの栄養への関心も高まり、残りの日々は献立表に従って学生が輪番制で食事作りをしている。OB・OGの支援もあり、今春に新しく快適なキッチンが完成した。

 

テレビ放映で箱根人気が沸騰するようになり、各校が熾烈な争いを繰り広げる昨今では、数千万円単位の強化費が当然とされる。高師、文理大、教育大時代を通じて貧乏学生たちが知恵と工夫で箱根路に足跡を残してきたが、もう一段のレベルアップには財政面の強化が避けて通れない。

 

弘山は「復活プロジェクト」の支援者を広く一般に募るクラウドファンディングを始めた。16年に258万円、昨年は405万円、今年は354万円が集まったが、有力校の1割程度というのが現状。この難題を乗り越えないことには、四半世紀も遠のいている箱根のスタートラインには立てない。筑波大はいま正念場を迎えている。

(了)

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船原 勝英

1974年度卒 筑波大学陸上競技部OB・OG会幹事長 
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