陸上競技のルーツをさぐる18

超長距離と「マラソン競走」の歴史<そのⅣ>

「マラソン競走」の距離が42.195kmと決まるまでの経緯

国際陸連(IAAF)が公認する「マラソン競走」の距離が42.195kmであることは、小学生でも知っている事ですが、この中途半端な「距離」がどのような経緯で決まったのかについて詳しく知る人は多くありません。

他の多くのトラック種目と異なり、「マラソン競走」の実施距離は五輪開催にあたってアテネ郊外の古戦場跡から市内の主競技場までという距離を計測して導入されたものです。そのため、その後の五輪大会で行う「マラソン競走」の実施距離をどうするかについて、特別な基準があったわけではないのです。

1896年4月にアテネで行われた五輪大会で大観衆を興奮させたレースの模様は米国でも大々的に報じられました。米国人気質から、さっそくこの種の長距離競レースを実施しようとの機運が高まり、同年9月20日にはニューヨークの「ニッカー・ボッカー陸上競技クラブ」主催でコロンビアの球技場に帰着する25マイル(=約40.23km)レースが行われました。この大会には30人の選手が参加し、J・マクダーモット選手が3時間25分55秒6で優勝しました。アテネでの五輪が終わってわずか5ケ月後の出来事でした。

ボストン・マラソンの開催

さらに、アテネのレースに米国からただ1人参加した選手が23kmを過ぎた地点で落伍した事で、「ボストン陸上競技協会」のメンバーは大いに発奮したそうです。米国勢は他の各種目では数多くのメダル獲得者を出していただけに、マラソン強化とこの種目の周知を兼ねた大会の開催を直ちに計画。翌97年4月19日の祭日(Patriot Day<独立戦勝勝利記念日>)に、ボストン郊外アシュランドのメトカルフの水車前からアービントンの球技場までの24.7マイル(=39.75km)の距離を走る「大会」を開催しました。

レースには15人選手が出場、前年のニューヨークの大会で優勝したマクダーモット選手が2時間55分10秒2でゴールして米国No.1の実力を証明しました。大会は祭日だったこともあり、沿道には多くの市民が応援に繰り出して成功裏に終了したという。以後、110年を経た今日でも世界最古のこの大会は「ボストン・マラソン」の名で開催されています。

1900年の「第2回パリ五輪」でのマラソン種目は、米国の2つのレースに習って25マイルで実施されましたが、1904年のセントルイスでの「第3回五輪」ではマイル基準からメートル基準にした事から40kmの距離で行われました。

42.195kmで行われた「第4回ロンドン五輪」

近代陸上競技発祥の地を自認する英国で1908年に開催されるにあたり、関係者は「マラソン競走」のコースを前例通り25マイルで実施する計画でした。ところが、英国の実行委員会は大会盛り上げのため、市民が競技を見られるように配慮しました。ロンドンから約40km離れたウインザー城の東庭をスタート地点とし、ロンドン市内西方のシェファード・ブッシュ競技場までの26マイルと、競技場内を約2/3周(385ヤード)を走る片道コースで行うことにしました。外側に自転車競技用の走路を備えた1周600ヤード大きな競技場でした。

レースは7月24日午後2時30分、五輪大会実行委員長のデスボロー卿の号砲でスタート。ウインザー城に起居する王族たちが見守るなか、56名の選手が一斉に走り出しました。デスボロー卿はこの後の1930~36年に第4代英国陸連会長を務めた人物。この時に設定された「26マイル385ヤード(=42.195km)」の距離が、今日、IAAFの公認する「マラソンの距離」となったのです。

レースは先頭で帰還してきたピエトリー・ドランド選手(イタリア)が、競技場に入って意識朦朧となって倒れ、競技役員が介助したことで失格となるというハプニングがありました。翌日、英国のアレキサンドラ皇后から失意のドランド選手へ特別カップが授与された事で、世界中から大きな注目を浴びる結果になりました。

ロンドンでは1909年以降毎年、このコースを使った「ポリテクニック・ハリアーズ・マラソン大会」が開催され、ロンドンの年中行事となりました。主催は五輪コースの距離測定などの裏方を務めたロンドン市内の「工芸学校(ポリテクニック)」のクラブ。レースはその後、百余年後の今日でも「ロンドンマラソン」に引き継がれています。

ところが、その後の五輪大会、金栗四三選手が日本人で初めて出場した1912年ストックホルム大会では40.2km、第一次大戦を挟んだ1920年アントワープ大会では40.75kmと距離は一定しませんでした。

1924年パリ大会のコース設定に関し、1912年に発足したIAAF(国際陸連)は、ロンドン五輪後に毎年開催されていた「ポリテクニック・ハリアーズ・マラソン大会」の功績や伝統を重んじて「26マイル385ヤード」のメートル換算値42.195kmを正式な「マラソン競走の距離」と決めたのです。強いインパクトを与えたロンドン五輪のレースと距離が、今日のマラソンの原点となったのです。

(以下次号)

写真図版の説明と出典

① 1908年7月24日『タイムズ紙P8』朝刊に掲載されたロンドンでの第4回五輪のレースのコース全図」

『同日の朝刊よりのコピー』(1984)<大英図書館付属新聞紙館で筆者が収集>

②「同日、ウインザー城を出発する選手たち」

『オリンピック=メルボルン大会を記念して=』(1956)鈴木良徳・川本信正編 P24(日本オリンピック後援会)

③ 先頭で競技場に入ったものの意識をなくして倒れたドランド選手の介助をする役員」

『Die Chronik 100 Jahre Olympische Spiele 1896-1996』(1995)P31

Britta Kruse unter Mitabeit von Armin Mende (Chronik Verlag)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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