あの日のように~エピソード5
九区への思い
大学三年の冬、私は前年につづいて京都マラソンを走り、現役選手では最高の2時間27分(当時の大学記録は築地先輩の23分)で走った。好調だった。関東インカレも今年は入賞が狙えるかもしれないぐらいに思っていた。
しかし、3月に入って兵庫での合宿で不覚にもまた膝を痛めてしまった。左膝だったが1年のときと同じ症状だった。それでも、最初のうちは、しばらく休めば治るだろうと思っていたが、残念ながら前回よりも長引くことになった。
4月に入っても5月に入っても走れなかった。私も四年生になり、卒論や、採用試験、それに教育実習の準備などに追われていた。また、大学に残るかどうかでも悩んでいた。(もう少し心理学の勉強がしたかった)6月に入り、教育実習での楽しい日々が始まった。私は近くの中学校に行ったが、今でも年賀状をくれる子がいる。だけど、脚はまだJogがやっとという状態だった。教育実習が終ったらすぐに採用試験の勉強だった。
そんなこんなで、8月の合宿まではとても箱根どころではなかった。この年も強い選手が入っていたし、私はメンバーに入れるかどうか際どいところだった。ただ、予選会がないということがかなり心に余裕を持たせてくれた。まだ十分ではなかったが、合宿ではかなり走れるようになってきた。(もう一度走りたい…箱根で今度こそタスキを渡したい)そんな思いが首をもたげていた。それでも夏の間中、私は時々襲う膝の痛みとの戦いを続けていた。
9月に入り、針治療に通いだしてようやく痛みがましになってきた。9月の中頃から10月にかけては、私の競技生活のなかで最も調子が良かったときかもしれない。練習でも5000mを14分代で走っていたし、20㎞以上のロード練習では常に3位内に入っていた。そんな状況から、私は何とかメンバーには入れそうだったが、八区の予定だった。実際に11月には試走にも行った。
(もう一度九区が走りたい…)と思っていたが、自分からは口にできなかった。とにかく全力を尽くすしかなかった。1日1日、1回ごとの練習に全力を尽くす。そして「絶対後輩には負けない」と我々4年生は思っていた。下級生には非常に強い選手が入ってきていたが、とにかく練習では四年生の誰かが意地でも先頭で引っ張っていた。鬼気迫るものがあった。
十二月に入ったある日、私は監督に呼ばれた。
九区に予定されていた後輩の調子がいまひとつ上がっていなかった。そして私は彼にだけは絶対負けないように毎日練習をしていた。「俺のほうが強い」ということを監督に認めさせようと思っていた。そんな私の気持を察してくれたのか。監督は一言だけ言われた。
「坂、もう一度九区を走れ」・・・・・・私は「はい!」とだけ答えた。
何とも言えない、込みあげてくるものがあった。最後の箱根は目前だった。
【執筆者】
脇坂 高峰 1981年卒 箱根駅伝は1980年56回大会、
81年57回大会でともに9区を走った(滋賀・虎姫高)