エッセー(3)姿勢と動きのイミテーション
囲碁や将棋はまず定石から始めるように,スポーツも姿勢や動きのイミテーションから始めると成長が早い気がする.しかし,身に付いた恒久的な動きを形成するためには長年月が必要である.
選手の中には他人の動作(動き)や技術を巧みにまねる(イミテーション)のを得意とする者がいる.その中には日本選手の中で最も多く金メダルを取った体操の加藤沢男氏やエンゼルスの大谷翔平選手がいる.大谷選手のバッティングを見ていると,投手の特性に合わせて簡単にバッティングフォームを変えているように思える.彼のすごさは,例え変えても自分の基本のバッティングフォームを崩さない卓越した能力を持っていることである.
ランニングの姿勢は生まれてから10~20年かけて身に付けたものであるから,動き(フォーム)を矯正することは実に難しい.多くの指導者は矯正する点を簡単に指摘するものの,指導者自身の体系化した理論なり経験や感性を駆使して指導できる者は少ない.先日ある学会で,ピョチャン五輪で金メダルを取ったスケートの小平選手を大学に入学してから継続して指導してきた信州大の結城教授の話を聞いた.
小平選手はジュニア時代から日本のトップ選手として活躍してきたが,どうしても世界の壁が破れず、悩んだ末に単身、世界のスケート王国オランダに修行に出かけた.そこで,オランダのコーチに猫が怒った時に毛を立て背を丸めた姿勢(猫背姿勢)で滑っていると指摘された.
滞在中に矯正に努めたがうまくいかず,帰国してから結城氏と本格的に矯正に乗り出した.まず意識の視点をヒップロック(支持脚をブロックすることによって浮遊脚の自由度を増す)に置き,それを可能にするために使う筋肉を意識しながら筋力をつけたり,脊柱のひねりをスムーズにしたり、スタート時の筋のたるみを(muscle slack)をなくすことによって,徐々に猫背が矯正され支持脚に加わるパワーが高まったと言う.
スケートに関する素人の私には具体的トレーニングと猫背の矯正やパフォーマンス向上への因果関係がよく理解できなかったが,結城氏自身が実に多くの方々から知識や情報を得て,それらを咀嚼・試行錯誤・取捨選択して指導したことが感覚的には分かった.小平選手は結城氏を「信じてはいるが,頼ってはいない」と言い,結城氏の指導理念は「選手を他己評価し,コーチングを自己評価する」である.選手の自律性と指導者の冷静な自己評価が金メダル獲得の要因だと感じた.
かつて一世を風靡した短距離のジェシー・オーエンス(米国)や吉岡隆徳のスタートの写真を見ると、スタート一歩目の上体の姿勢が背筋をピーンと伸ばしていることに気付いた.その時学生であった筆者は単純に背筋を伸ばしてスタートすると早く加速ができると思った.しかし,その後レースや雑誌などのスタートの姿勢を注意して見ていると,決勝に進んだ選手たちの背筋がスタート直後必ずしも伸びていない.さらに,時代が変わってオールウェザーの時代になるとスタート直後背筋が伸びている選手はさらに少なくなった.
最近体育館に行った折、陸上部に所属する中・高校生が背筋力を計測していた.観るでもなく観ていると何人かが背を丸めて(猫背姿勢)力を出していたので,「背中を丸めて測ると腰を痛めるよ」と注意をしたが,一向に改まらない.そこで気がついたことは,静止の状態で後方に背中を反った背伸姿勢ができない者が数人に1人いることであった.平成10年から文科省の児童生徒のスポーツテストが改正された.改正理由の1つが体力測定中にけがをする児童生徒が多くなったことである.新スポーツテストから背筋力が削除された.
初代文部大臣は欧米を歴訪して欧米人に比べ日本人の姿勢が悪いことに気づき,姿勢教育を推奨した.それは戦前の教育を受けた教師に引き継がれ,筆者が子どもの頃は教育の場で姿勢の矯正が日常的に指摘された.体育授業でもプロムナード(行進)が頻繁に実施され,運動会でプログラムの中に必ずプロムナードが組み込まれた.指導していた教師が退官すると姿勢を注意する者はいなくなった.
年月が経過し, 1978年体育の日の前夜NHKで放映された“警告!子どものからだは蝕まれている”は教育関係者に大きな反響を呼んだ.翌1979年,日体大の正木健雄教授は『子どものからだは蝕まわれている』(大月書店)を出版した.その中には,都会の小学生の50%が背中ぐしゃ,中学生では44%が背中ぐしゃ,高校生では腰痛43%,脊柱異常38%と記述されている.
その後、子どもの背筋力が低下していることが単発的に報告されたものの,文科省のスポーツテストをみる限り、際立った低下はみられない.腰部は動きの中心であり,腰部が強いことは動きのイミテーションだけでなくスポーツのパフォーマンス向上に効果的である.