陸上競技のルーツをさぐる68

「混成競技」の歴史<そのⅡ>

「近代陸上競技」における「混成競技」

オールラウンドな能力を持つ競技者が競う「混成競技」は、19世紀中葉から英米各地で開催されました。英国では、1853年の週刊新聞『Bell’s Life in London』紙に、2人のアマチュア選手が「1マイル走」・「後ろ向き1マイル競歩」・「馬車用車輪ころがし1マイル走」・「3フィート6インチ(106.4㎝)の高さのハードル50台跳び越し走」・「石挙げ」・「56ポンド(25.4kg)重錘投」の多種目に挑戦したことが掲載されています。これらの種目はこの後も英国各地で散見されますが、陸上競技の個別種目を組み合わせて行う正式な「混成競技」は行われていません。

古代ギリシアの理想を追い求める米国では、1884年に開催された「全米アマチュア競技連合(AAAU)選手権」で、今日の「十種競技」の出発点ともいえる本格的な「混成競技」が行われました。実施種目は「100ヤード(91.4m)」・「砲丸投」・「走高跳」・「880ヤード(約804m)」・「ハンマー投」・「棒高跳」・「120ヤード(109.7m)H」・「56ポンド重錘投」・「走幅跳」・「1マイル走」でした。全10種目を1日でこなす極めて苦しく、厳しい種目でした。

 

この種目に挑んだ米国の選手の中には、五輪の投てき4種目で優秀な成績を残したM・シェリダンや1960年代にIOC会長を務めたA・ブランデージ氏らが含まれます。1904年セントルイス五輪閉会直後には「混成競技選手権大会(All-round Championship)」が開催され、ハンマー投や三段跳が得意だったT・カイリー(アイルランド)がフットボール選手らを抑えて6036点で優勝しました。

 

この時の採点表は記録と得点が「正比例」する単純な方式。走種目は1位だけが計時され、他の選手は1位選手との距離から推測して得点化する極めて大雑把なものでしたが、この大会の成功が五輪での正式種目導入の契機となったとされています。

 

近代五輪における「混成競技」

「古代オリンピア競技」では中心的な種目だった「混成競技」ですが、復活したアテネでの第1回近代五輪ではなぜか実施されていません。1904年のセントルイス五輪では、米国で広く行われていた「走幅跳」・「100ヤード(91.4m)」・「砲丸投」の「三種競技」が4カ国、118名もの参加で実施され、M・エムメリッヒ(米・インデアナポリスYMCA)が優勝。この時の記録や得点の一覧表は残っているものの、採点方法などは明らかではありません。

 

1906年のアテネでの「中間五輪」では、「古代オリンピア競技」で行われていた種目を「デモンストレーション種目」として実施したため、「古代五種競技」が12カ国26名の参加で実施されました。初日に「立幅跳」、「ギリシア型円盤投」、「やり投(フリースタイル)」が行われ、記録とは無関係に各種目での順位数を合算し、合計数の少ない8選手が残されました。

第2日は「古代オリンピア競技」で行われていた192mの直線を走る「スタジオン走」を行い、最終日は4種目終了時点での上位6名によって「グレコローマン型レスリング」で勝者を決めました。この競技では、1890年代前半から競技している北欧勢が強く、34歳のH・メランダー(スウェーデン)が優勝したほか、上位も独占しています。

 

写真図版の説明と出典

  • 「1850年代に行われたノルウェーにおける「多種目挑戦競技」の様子」『The Decathlon -A colorful history of Track and Field’s most Challenging event-』(1989年)Frank Zarnowski DA著p.27(Leisure Press, Illinois)
  • 「1906年中間五輪に出場し、投てき種目で9個のメダルを獲得していたM・シェリダンの横顔」

『同上書』p.35

  • 「64東京五輪当時IOC会長だったA・ブランデージ氏の現役時代の雄姿<委員歴1936~72年>」『同上書』p.41

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岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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