陸上競技のルーツをさぐる66

「やり投」の歴史<そのⅤ>

女子「やり投」競技の初期の状況

女子の「やり投」は、1920年代には欧州の陸上競技会で実施されるようになりました。最も古い記録は、英・仏など15カ国の選手が参加して1921年3月にモナコのモンテカルロで行われた「第1回国際女子大会」。男子と同じ「重さ800gのやり」を使った優勝記録はG・モリス(仏)が出した41m28でしが、男子と同じ左右両手投げの合計(内訳は不明)記録でした。

 

同年10月30日にパリで行われた「英仏女子対抗戦」では、E・ピーチイナフ(英)が36m53で優勝していますが、これも男子用のやりを両手で投げる「フリースタイル投法」での記録でした。

 

大会翌日には「国際女子スポーツ連盟(FSFI=Federation Sportive Feminine Internationale)」が結成され、翌22年8月20日には「第1回女子オリンピック大会(The first Women’s Modern Olympic Games)」が開かれました。この大会でも男子用やりの「左右合計記録」で競い、I・ピアンゾラ(スイス)が42m24で優勝。翌23年の「第3回世界女子大会」(モンテカルロ)は、L・グロスリモンド(スイス)が44m96で制しています。

 

1926年8月27~29日にスウェーデンのイエーテボリで開催された「第2回世界女子大会」には、日本からも人見絹枝らが参加。「やり投」には王国の先輩男子たちの指導を受けたアルデスコルド(スウェーデン)が、49m15(右手29m66・左手19m49)の「世界最高記録」を樹立して優勝を飾っています。

 

女子の「やり」の規格をどうすべきかについては以前から論議があり、この大会期間中に開かれた「FSFI」総会で、「重さ600g、長さ2m30のやり」を用いて中心部を握って投げる競技方式が確定。その後、「IAAF」もこの規格を認め、1928年にH・ハルガス(ドイツ)の38m39が最初の公認記録(「左右合計記録」は翌年にドイツのオウがマークした57m08)となりました。

 

初めて五輪種目に採用されたのは1932年ロサンゼルス大会。80mHで優勝 、走高跳でも2位に入った万能選手の「ベーブ」M・デドリクソン(米)が、43m68で金メダルに輝きました。

この大会では真保正子(大阪・泉尾女教員)が39m07の日本記録で見事に4位入賞。続く「ベルリン五輪」でも、山本定子(中京高女)が41m45で5位に入るなど、輝かしい成果を挙げています。山本は五輪直前にノルウェーのラハチで44m51の日本記録を樹立、この記録は戦後の1955年まで破られませんでした。

第二次大戦後の「女子やり投」の動向

第二次大戦後の1949年8月、N・スメル二ツカヤ(旧ソ連)が53m41の記録を投げて50mの大台に乗せました。1964年東京五輪では、予選ラウンドでY・ゴルチャコワ(旧ソ連)が62m40をマークして60m台時代に突入、1980年7月にT・ビリュリナ(旧ソ連)が70m台の扉を開きます。現在の世界記録は2008年9月にB・シュポタコバ(チェコ)がマークした72m28。

 

日本記録は2019年10月に北口榛花(日本大)が投げた66m00。世界記録の約90%にとどまってはいますが、他の投てき種目と比べれば世界との距離は近いと言えます。もう一段の飛躍が望まれます。

86年に男子の「やり」は飛距離が伸びて危険になったため、「重心の位置を4㎝前方へ移動」する規格変更をしました。女子も同様の理由で99年4月、「重心の位置を3㎝前方に移動」する変更をしています。

 

写真図版の説明と出典

  • 「女子やり投げが、今日と同様の基準で初めて導入された1932年の「ロス五輪」で優勝の万能選手のM・Babe・デドリクソンの投てき(優勝記録は43m68)」『The Olympics―A History of the Modern Games―』(1992年)Allen Guttmann著 p.72~73内の写真頁 (University of Illinois Press)
  • 「32年のロス五輪で4位入賞の真保正子(39m07)の投てき」『オリンピック』(1956年)(鈴木良徳・川本信正編著)p.64(日本オリンピック後援会)
  • 「36年のベルリン五輪で5位に入賞(41m45)した山本定子の国内競技会での投てき」『雑誌「陸上競技(第8巻・第12号)」』(1935年)陸上競技研究會編輯 p.67(一成社)
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岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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