陸上競技のルーツをさぐる45
「三段跳」の歴史<そのⅣ>
20世紀以降の世界の「三段跳」
「第1回アテネ五輪」(1896年)から実施されてきたのにもかかわらず、三段跳びの記録が他種目に比べて長く低迷したのはなぜだったのか。
この種目の「生みの母」的存在であった英国では、「選手権大会(AAA)」の正式種目となったのは1914年から。
1920年代以降のほとんどの陸上種目で世界一の実力を誇った米国でさえ、三段跳びは「全米学生選手権」で1962年まで実施されておらず、全米各州の高校生の競技会では1970年代初頭まで公式種目として行われていなかったのです。
米国の五輪優勝者は、1904年のセントルイス大会のM・プリンスティーン以降、84年のロサンゼルス大会でA・ジョイナーまで、実に80年間も「金メダル獲得者」が生まれなかった。
このように、両陸上王国が「三段跳」に関心を示さなかったこともあり、注目されない種目のひとつでした。
この間、1910年代にスウェーデンやフィンランドなど北欧諸国の選手たちが活躍した後、20年以降日本の学生選手たちは着実に力をつけてきます。
日本選手たちの世界的な大活躍
24年の「パリ五輪」で6位入賞を果たした織田幹雄が、28年アムステルダム五輪で15m21を跳んで日本人として初めて「金メダル」を獲得。
36年までの3回の五輪で織田、南部忠平、田島直人の3選手が連続して優勝し、世界中を驚かせます。
しかも日本の跳躍陣は、「五輪三連覇」の偉業のほかにも、南部が、アムステルダムで4位、原田正夫がベルリンで「銀」、大島鎌吉が、ロサンゼルスで「銅」、ベルリンでも6位に入るなど多くの入賞者を出しました。
1931(昭和6)年に織田が15m58を跳んで日本選手初の世界記録を樹立。
南部、田島両選手も五輪の決勝で15m72、16m00の「世界新記録樹立」の快挙を果たしています。
国内外に「三段跳は日本のお家芸」と大いにアピールをしました。
日本の選手たちが世界の舞台で活躍できたのは、織田に刺激を受けた素質のある後輩たちが「走幅跳」や「三段跳」に果敢に挑み、一人ひとりがたゆまぬ工夫と努力を重ねたためであることはもちろんです。
加えて、この種目に求められる強い脚力と空間で高度なバランス感覚が、「座位」が中心の日本人の生活習慣によって培われた「起居(たちい)振る舞い」がプラス要因として働いたのではないかとも言われました。
長身長脚「立位」で「椅子・ベッド」生活の多い欧米人には不向きであったとの説ですが、どうだったのでしょう。
しかし、第二次世界大戦後に日本人が欧米風の生活様式を取り入れ、60年代の「高度成長期」以降の機械化・省力化のなかで「脚力を使わなくともよい生活」になるにつれ、日本の「三段跳」は70年代以降、高校生のレベルから弱体化が始まりました。
今日では、80年以上前に田島選手がベルリンの「土のグランド」で出した16m00を上回る選手が毎年15名前後という状況に陥り、世界の水準からも大きく引き離されているのが現状です。
近年の「三段跳」
逆に長い間「三段跳に弱い」といわれてきた欧米の選手たちは、この難しい種目に挑戦するために、脚力や走力を高める科学的基礎的トレーニングの導入と技術向上に向けた工夫と努力を重ねてきました。
50年代以降に東欧諸国の選手が大活躍する時代を経て、20世紀末から今世紀にかけては米国の選手たちや「三段跳の母国」英国からJ・エドワーズが出現します。
エドワーズは95年の世界選手権で、「6m以上を3回連続」跳躍する計算になる18m29という大記録を樹立ました。
助走路が土製から弾性のある人工的なものに変わったとはいえ、百年前には想像すら出来なかった記録が誕生しています。
日本選手たちには、大先輩たちの偉業の水準へ1日も早く巻き返しを図ってほしいものです。
以下次号
写真の説明と出典
- 「1932年ロサンゼルス五輪で走幅跳3位、三段跳金メダルの南部忠平選手」
『雑誌・陸上競技・臨時増刊跳躍研究號第7巻13號』(1934年11月) 写真p.3(一成社) - 「1932年ロサンゼルス五輪で3位入賞の大島鎌吉選手のフォーム」『同上書』表紙写真
- 「1936年ベルリン五輪で田島直人選手が16m00の世界新記録を樹立した瞬間」
『運動競技資料とオリムピック事情奥付』(1937)稲葉言治著 p.48 (教育日本社) - 「1936年ベルリン五輪で同じ京都大学OBの田島(右)と原田(左)が「金」「銅」メダルを獲得する偉業を成し遂げた」『同上書』p.50
- 「1995年の世界選手権で世界新記録を樹立したJ.・エドワーズ選手(英国)の跳躍」
『アトランタ・オリンピック総集編(アサヒグラフ)』(1996)p72(朝日新聞社編)