陸上競技のルーツをさぐる44

「三段跳」の歴史<そのⅢ>

第1回五輪から採用された「三段跳」

19世紀初頭から「プロ選手」たちの跳躍力のすばらしさを興行として見せる「三段跳」は、主役が次第に「アマチュア選手」たちに取って代わられ、19世紀中葉には学生たちの対校戦の種目に採用されます。

米国では1896年「第1回アテネ五輪」3年前の「全米陸上競技選手権大会」で「hop step jump」の形式の跳び方で実施され、E・ブロスが14m78の記録で優勝しました。

しかし、翌94年大会では行われたものの、95年以降1906年までの12年間は全く行われませんでした。

 

一方、多くの「プロ選手」が各地でこの種目を行っていた英国では、19世紀末から20世紀初頭では「アマ選手」に限って参加できる「選手権大会」では行われず、1914年になって「国際陸連」が公認種目とした後に、ようやく実施されることになりました。

 

このような状況だったにもかかわらず、「三段跳」が五輪では「第1回アテネ大会」から登場して今日まで連綿と行われてきています。

先進国の英米両国「選手権大会」でも実施されていなかったこの種目が、どのような経緯で五輪種目に採用され、登場してきたのかについては十分な資料が見付からず、残念ながら根拠を示すことができません。

これについては、1952年に日本体育協会が発刊した『オリンピックと日本スポーツ史』巻末の「オリンピック入賞記録一覧」のなかで、故鈴木良徳氏が1895年1月発行の『オリンピック公報』をもとに「三段跳」はオリンピック種目として最初の計画にはないものであった」と注釈をつけており、当初は実施予定になかったことがうかがえます。

 

さて、1896年の「アテネ五輪」では、「三段跳」の母国ともいわれるアイルランド出身のJ・コノリー(米国)が、「hop hop jump」の形式で13m71の記録で優勝し、初代優勝者として名を残していますが、記録は他の種目と比べても極めて低調であり、当時は、五輪大会でさえも、「三段跳」の跳躍の方法や規則が、まだ定まってはいなかった事もわかります。

 

続く1900年と04年の五輪大会で連覇を果たしたのは、当時「選手権大会」の種目として「三段跳」を実施していなかった米国のM・プリンスタインでした。

彼は「走幅跳」で04年に7m34、06年の「五輪開催10周年記念大会(アテネ)」でも7m20の記録で2連覇した選手でしたし、06年の大会「三段跳」の優勝者が「走幅跳」世界記録(7m61)保持者のP・オコーナ(アイルランド)だったことを考えると、当時は「三段跳」を専門家は少なく、「走幅跳」選手が余技として行う段階であったようです。

 

 「立三段跳」の王者、ユーリー

すでに他の跳躍種目の項でも述べたように、「立三段跳」は「立幅跳」と「立高跳」とともに1900年と04年の2大会で行われただけでした。

この種目はR・ユーリー(米)の独壇場。子どもの頃にポリオを患ったユーリーでしたが、障がいを克服してこの3種目すべてに2連覇、合計6個の「金メダル」を獲得しました。

06年の記念大会と08年のロンドン五輪でも「立幅跳」と「立高跳」を制し、生涯で合計10個の「金メダル」を手にした偉大な選手でした。

 

06年大会以降は「立三段跳」は実施されなくなりますが、2回の五輪でユーリーが出した「立三段跳」の記録は10m58と10m54だったことを記しておきます。

 

「三段跳」の規則の確立と初期の記録

1896年の第1回五輪大会開催以降、競技規則が国際的レベルで統一されていないために多くの問題が生じました。

1908年「五輪ロンドン大会実行委員会」は、近代的な陸上競技の組織をいち早く確立していた「英国陸連(BAAB)」の力を借りて、各種目の競技方法(規則)を整備することになりました。

この時に確立された規則が21世紀に至るまで競技方法や規則の基礎となっていることは間違いありません。

定まった規則がなかった「三段跳」は、この機会に『hop step jumpの方法で行う』と定められます。

その後の1913年に創設された国際陸連(IAAF)では、この形式の記録だけが公認されることになり、今日に至っています。

 

こうして新しく確認された規則の下で行われた初期の記録としては、08年ロンドン五輪でティム・アーハン(アイルランド)が跳躍した14m92が当時の「アマ選手」の世界最高記録とされました。

その後、アイルランドから移民として米国に移ったティムの兄ダン・アーハンが11年5月、ニューヨークの競技会で跳躍した50フィート11インチ(15m48)は当時としては抜群の「公認世界記録第1号」とされました。

この記録は、24年の「パリ五輪」でA・ウインター(豪州)が50フィート11インチ3/4(15m525)を記録するまで13年間も世界記録として輝きました。

以下次号

図版説明の説明と出展

  • 「1906年オリンピック10周年記念大会<アテネ>におけるP・オコーナ―のホップ動作」

『Athletics of To-Day-History Development &Training-』(1929) p224

F・A・M・Webster著 (Frederic Warne & Co. Ltd)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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