陸上競技のルーツをさぐる40
「走幅跳」の歴史<そのⅥ>
黎明期の世界女性陸上競技界において人見絹枝が走幅跳の世界記録を樹立
19世紀中葉以降、産声を上げた世界女性陸上競技界の歩みについては、すべての個別種目の『「ルーツ』の記述を終了した後に章を改めて、記述していく予定です。ただし、この時期に走幅跳で世界記録を樹立した人見絹枝の偉業に関しては特に述べておきます。
米国では1895年11月9日、ニューヨーク州ポキプシーにある「ヴァッサー女子校(Vassar College)」の校内大会で走幅跳が種目として実施されたとの記録が残っています。この時の記録は生徒のベイカーが、3m48を跳んだにすぎませんでした。
20世紀に入って第一次世界大戦以後、英国・仏国・ドイツなど欧州各国で陸上競技大会が開催されていきますが、1918年の「第1回オーストリア女子選手権」での優勝記録は、3m41でした。20年9月の「ベルリン対ウイーン国際大会」では4m91の記録が出され、21年3月のモンテカルロの「国際女子5か国対抗」では、米国選手たちも参加し、22年8月の「国際女子陸上競技大会」での優勝記録は、5m06にまで向上してきました。
日本でもこれら欧州諸国からの情報を得て、22年11月には「全日本女子選手権陸上競技大会」が開かれ、24年6月の大阪南港の大阪市立運動場での「第1回日本女子オリンピック」では、高村繁子(愛知淑徳女)が4m705で優勝を飾りました。
こうした試合の積み重ねのなかで、デビューしてきたのは1907年元旦生まれで、28年の「アムステルダム五輪」800m決勝で「銀メダル」を獲得した岡山県出身の人見絹枝でした。人見は周囲の先輩たちの支援を受け、世界的なレベルでも非凡な才能を発揮して20年代の日本の黎明期の日本女子陸上界を牽引しました。
彼女は既に学業を終えて大阪毎日新聞の記者でした。本来の力は短距離走と走幅跳で発揮されましたが、「立幅跳」や「三段跳」でも世界的な水準に達していたことは有名です。26年夏にはスエーデンのイエーテボリで開かれた「第2回国際女子大会(女子オリンピック)」へ単身遠征。走幅跳で5m50という当時の世界記録をマークして優勝し、欧州でも大変な話題になりました。
さらに28年5月20日、「アムステルダム五輪」を前にした大阪市立運動場での最終予選会を兼ねた大会では、世界記録を5m98に更新しました。この記録が世界では、39年7月に6m12を跳んだC・シュルツ(独)に、日本では戦後の47年6月に6m01を跳んだ山内リエ(菊花女子教員)に破られるまで残っていたことを考えると、いかに偉大な記録であったか分かります。
しかし、黎明期における女子陸上競技界の巨星は、31年4月末に自宅で喀血したのち、大阪医大病院に入院。「乾酪性結核」と診断され、31年8月2日、アムステルダム五輪800mで激闘を演じた日のちょうど2年後、惜しまれながらこの世を去りました。この年の月刊雑誌の『陸上競技(Track & Field)』は表紙に人見の写真を掲載し、当時の陸上競技界の先輩や友人たちの惜別の文章を掲載して哀悼の意を表しました。
女子走幅跳はその後、五輪では第二次世界大戦後の1948年ロンドン五輪以降に正式種目として採用されて定着し、世界記録は1950年代以降、しばしばソビエトや東奥諸国の選手たちによって更新されました。78年8月にはV・バルダウスケネ(旧ソ連)が7mの壁を破ると10度を越える記録更新があり、88年にG・チスチャコワ(旧ソ連)がマークした7m52が今世紀まで世界記録として輝いています。
以下次号
写真図版の説明と出典
- 「1928年6月、第6回英国女子選手権大会での人見絹枝の走幅跳の様子<於・第4回ロンドン五輪会場だったスタンフォード・ブリッジ競技場>」
『雑誌・陸上競技(第4巻10月号)』(1931)p9 陸上競技研究会編輯 - 「人見絹枝選手とともに海外遠征に同行した木下東作博士(右)と当時、国際女子スポーツ連盟会長職にあったA・ミリア夫人」
『雑誌・陸上競技(第4巻4月号)』(1931)p6 陸上競技研究会編輯 - 「1929年秋の神宮大会における人見絹枝選手の走幅跳の様子」
『①と同上書』(1931)p17 - 「人見絹枝選手の逝去を偲んで表紙に、サイン入りの写真を掲載」
『①と同上書』(1931)雑誌表紙