競技中のアスリートの健康問題 ―ランナーの熱中症原因を探る その1―

田神一美 (筑波大学名誉教授、スポーツ衛生学)

 

アスリートは常人を超えた身体、精神機能を有するヒトの集合であり、確かにその能力を我々の目の前で惜しげもなく披露してくれる。しかし、30年以上に渡って彼らと接してきた衛生学者の目に「?」がたびたび飛び込んでくる。何かがおかしいのである。「ひょっとすると彼らは健常とは言えないのかもしれない」という気付きが私の50歳代の生活を一変させた。世界中の誰一人も、アスリートが病気がちであると疑っていないに違いない。病気を扱うのは医師の仕事である。しかし、医師が絶対に手を出すことができない領分が「スポーツ競技中」という瞬間である。この時間のアスリートが病気にならないようにするという仕事が誰に任されているのかを問うた者はいない。

令和元年は筑波大学が箱根駅伝本戦に復帰した記念すべき年になり、応援の場で船原先輩と再会でき、こうした場を与えていただけたことに運命的なものを感じる。箱根駅伝といえば真っ先に「ブレーキ」を思い浮かべられる程に、ブレーキは大きなドラマを提供している。選手・監督・コーチの目線から見れば、防げるものなら防ぎたい不名誉な出来事である。ブレーキは、その実態が何で、原因が何なのかについて語られたことはほとんどない。駅伝を走る後輩諸君が直面する現実的な大きな課題の一つである。

ブレーキといえば、朦朧として倒れこむ状況を思い浮べるが、監督の走破予想時間を大幅に超える「前駆症状」まで含めるべきである。「整形外科的な障害が無く、尚かつ2分以上の予想時間遅延」を軽症ブレーキと提案したい。5分遅延が中症、停止が重症とするのはどうであろうか。他のチームがブレーキで苦しんでいる時に、予想時間で走破できれば、順位を上げることが可能となる。原因が分かれば対策は容易で、知恵のある者に女神は微笑んでくれる。

私は「ブレーキは熱中症である」という仮説を立てている。しかし、真冬の関東の外気には熱源がないので誰もこれに同意してもらえない。生理学の教科書にある体熱収支式を解くことで真冬のランナーが熱中症をおこす「熱源」を見つけることができる。私の「数Ⅱ」の知識経験では難しい計算だったが、EXCELの登場でどんな関数でも扱える時代が来たことが福音となった。放射熱伝達の4乗の計算が難なくこなせることが幸いである。

図は、復路を東京に向かって走るランナーが空冷エンジンをフル回転して時速20km/hで走り、西から東に向かう5.6 m/sの冷たい季節風が優しく彼らの背中を押して応援している、そんな場面である。20 km/hで走っているランナーの秒速は5.6 m/sなので、この時ランナーの「対気速度」は0 m/sとなって空冷力が最低となる「地獄」のレースが展開されている。これが私の描くシナリオの根底にある。

ランナーは、400 kcal/m2/hのエネルギーを消費し、その20%が移動(走り)に使われ、残りを放熱しなければならない。青線で示す冬には80 kcal/m2/h程の長波長放射放熱が期待できる。関東地方の日差しからランナーが吸収する短波長放射熱は230 kcal/m2/h程度が流入すると見積もられている。追い風4 m/sくらいまでは熱バランスは保たれるが、これより強い7m/sまでの西風に追われている間は熱を貯め込むことを図は示している。オレンジ色の線は真夏のマラソンレースを想定した試算である。別件となるので解説はしないが、巷間言われていることと真逆のデータをランナーや指導者の皆さんに味わっていただき、共に対策を練り上げて行く契機となることを念願している。

ランナーの冷却余力と追い風との関係

 

ブレーキは「箱根の魔物」という神話は既に過去のものである。Robert (2000)は、Minnesota 州のMinneapolisと Saint Paulを結ぶコースで毎年晩秋に開催されているTwin Cities Marathon参加者8万名(1982-1994年)に発生した障害を解析して、23名の高体温症を記録した。2006年になって、彼は1982年のレース直後に発症した重症患者をExertional heat stroke(EHS)と診断して発表した(Robert, 2006)。また、Jones et al., (1985)は、1983年10月末の晴天下で開催されたボストンマラソンで発生したEHSを含む傷病者の構成は暑熱下のマラソンと相違がないと述べている。2006年のRobert論文以降、このテーマに進捗はなく、マラソンランナーの熱中症予防について現場のイノベーションも認められていない。彼らには箱根駅伝の情報が乏しく、ランナーの熱中症の普遍性に気づけていないと考えている。

ブレーキやEHSは、いずれも北半球で起きており、箱根駅伝を含めてそれぞれのコースには、いずれも北東を目指す長い直線コースが含まれている。季節はいずれも晩秋から真冬である。これは地学や歴史で学習した貿易風(季節風)が追い風となってランナーに試練を与えていることを暗示している。

今回はここまで。次回は「その2」として放射熱収支について「驚愕の事実」を書かせていただく予定だが、この内容は論文投稿中のため、学術誌に採択されない限り披露できない。困難な課題ではあるが、決して諦めずにトライしてお伝えできるよう精進してゆく。

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