陸上競技のルーツをさぐる57
「円盤投」の歴史<そのⅤ>
女子の「円盤投」の歴史
第1次世界大戦の終結とともに女子円盤投は欧州諸国の競技会でも徐々に行われるようになりましたが、男子同様に「円盤」の大きさや重さは一定していなかったのです。1918年7月のオーストリア陸上競技協会「女子選手権大会」では、男子用と同じ2㎏の「円盤」で実施され、優勝記録は16m77にとどまっています。20年9月の「ベルリン対ウイーン国際対抗大会」での優勝記録は21m08でした。
22年にはドイツ陸上競技連盟が女子の記録を公認することを決定。翌23年に「1㎏の円盤」で27m48投げたY・テンプレー(フランス)の記録とともに「1.5㎏の円盤」で24m93を投げたF・エノー(ドイツ)の記録も「世界最高記録」と認めました。
英国での実施はさらに遅れ、21年のパリ「英仏対抗女子陸上」や、22年から始まった「英国女子選手権」では未採用でした。21年からモンテカルロで開始された「国際女子陸上競技大会」や、22年8月パリで開催された「第1回女子オリンピック」でも「円盤投」は行われませんでした。
24年になると欧州各国では女子陸上競技全般が盛んになります。8月4日のロンドンで開かれた「6か国対抗女子陸上大会」には2万5000人もの大観衆が集まり、V・モリス(フランス)が「1㎏の円盤」で30m12の「世界最高」を投げて優勝しました。
これが契機となり、「円盤投」後進国だった英国でも本格的に手掛ける選手が登場。当初は「利き手」と「逆手」の記録を合計して勝者を決める方式でしたが、25年の大会では「両手の合計記録」43m31の記録をマークしたF・バーチイナフ(英国)の記録を「世界最高」として認定。26年8月7日の「英国国際大会」で同じバーチイナフが「利き手投げ」でマークした31m41を「世界最高」と認めました。
この年には「国際女子スポーツ連盟」の加盟国が世界に広がり、8月27~29日にスウエーデンのイエーテボリで「第2回世界女子陸上競技大会」を開催。日本からシベリア鉄道経由で単身参加した人見絹枝(大阪毎日新聞社)が「走幅跳」で見事優勝するとともに「円盤投」でも33m62の記録でも2位入賞を果たしました。
優勝は長身のH・コノパッカ(ポーランド)で、当時としては大変な好記録だった37m71をマーク。英国の実力者バーチイナフは5位に終わりました。
人見のこの大会での記録は、当然「日本記録」でしたが、今日と違って国外で記録した記録の確認についての手続きに問題があったのか、当時の日本陸連は公認していません。しかし人見は30年5月、神宮競技場で34m18を投げて公認の日本記録を樹立し、この種目でも世界的な水準の競技力を発揮しました。
「女子円盤投」の規則確立と五輪種目採用後の状況
「国際女子スポーツ連盟(FSFI)」は、26年に総会を開き、「女子円盤投」規則を決定しました。さまざまな規格で行われてきた「円盤」は、この時以降『男子用の半分の重さの1㎏とし、サークルは直径2m50の男子と同様のものを使用する』となり、今日に至っています。
国際オリンピック連盟(IOC)は、28年の「アムステルダム五輪」で実施したわずか5つの女子種目<100m・800m・400mR・走高跳・円盤投)のひとつにとし採用。第一人者のH・コノパッカ(ポーランド)が、39m62の記録で優勝しました。
わが国の女子投てき界も水準が上がり、36年の「ベルリン五輪」には中村コウ(北海高女)が4位(38m24)、峯島 秀(国府台高女教員)が5位(37m35)と2人がみごとに入賞を果たしました。
さらに、戦前には短距離選手としていた吉野トヨ(山梨県教委)が戦後も投てき選手として大活躍し、52年の「ヘルシンキ五輪」で4位に入賞(43m81)。62年には7度回目の日本記録を樹立して48m08にまで記録を更新。その後の日本女子を牽引していったことは特筆すべきことです。
五輪種目となったことで記録も伸び、36年「ベルリン五輪」を前にこの大会でも優勝したG・マウエルマイヤー(独)が48m31の世界記録樹立。39年には、N・ダウンバーゼ(ソ連)が49m54を投げましたが、ソ連が国際陸連に加盟していなかったため記録は非公認でした。45年にソ連が国際陸連に加盟、ダウンバーゼは51年に53m25、52年秋には57m04にまで世界記録を伸ばしました。
ソ連が初めて五輪に出場したのは52年の「ヘルシンキ大会」から。N・ロマシコーワが51m42を投げて優勝し、ソ連の女子陸上選手として初の金メダリストに輝きました。33歳になっていたダウンバーゼは惜しくも3位。
女子選手の体格・体力は一段とたくましくなって67年には世界記が60mを超え、75年にはF・メルニク(ソ連)が10度にわたる世界記録の更新の末に70mの大台(70m20)に乗せました。88年にG・ラインシュ(旧東独)がマークした76m80は、30年以上更新されていない世界記録です。
(以下次号)
写真図版の説明と出典
- 「女子種目として初登場した28年のアムステルダム五輪の優勝者、コノパッカ(ポーランド)の投てき姿」『Athletics of To-day for Women』(1930)p102 F.A.M.Webster著(Frederic Warne & Co .Led,)
- 「26年第2回世界女子競技大会で2位入賞(33m62)を果たした人見絹枝の競技姿」『同上書』p210
- 「36年ベルリン五輪で4位入賞の中村コウ(38m24)の投てき姿」『運動競技資料とオリムピック事情』(1937)p61稲葉言治著(教育日本社)
- 「同大会、5位入賞の峯島 秀(37m35)の国内での大会における投てき姿」『雑誌・陸上競技(第10巻第9號)』(1937)p59 陸上競技研究會編輯 (一成社)
- 「57年のヘルシンキ五輪で4位入賞(43m81)の吉野トヨ」『オリンピックーメルボルン大会を記念して』(1956)p117 鈴木良徳、川本信正編(日本オリンピック後援会)
- 「ソ連女子選手として初の五輪金メダリストに輝いたロマシコーワ」『The Olympics at 100-A Celebration in Pictures-』(1995) p58 Ed. Barbara Gilson (The Associated Press)
- ⑦「同僚の現世界記録保持者ラインシュに投げ勝ってソウル五輪で優勝したM・ヘルマンの投てき」『毎日グラフーソウル オリンピック総集編―』(1988)p58(毎日新聞社)