陸上競技のルーツをさぐる26

競歩競技の歴史<そのⅠ>

この数年の日本陸上競技界における競歩選手たちの活躍は目覚ましいものがあります。世界レベルの大会での入賞者数だけでなく、記録面での伸びも素晴らしい。目前に迫った2020年東京五輪での活躍へ期待が膨らむ一方です。ここでは、わが国では最近まで関心が高まらなかった「競歩競技」の歴史についてみていくことにします。

「walk」と「競歩」

「歩く」という身体動作は、人間が直立二足歩行を始めて以来、それが発展した「走る」という動作とともに人間の移動運動のひとつとして欠くことができない行動様式でした。

 

「歩く」動作は、太古の時代から労働手段として生活の中にしっかりと組み入れられてきたので、「競走」には後れを取ったものの、「競歩」は世界各地で様々な形式と距離で行われるようになりました。英語では「walk-race」あるいは「walking-race」、「race walking」などと呼んでいます。

 

「walk」の英語は、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなど北欧諸国で「重いものを引っ張る」「足を引きずる」「のろのろ進む」や「転び回る」「もがき進む」などの意味で使っている「valka」 や「walke」と同じ語源を持ち、「回る」「投げ上げる」の意味を持つ古英語の「wealcan」や「行く」という意味の「gewealcan」から転じた語です。今日では「walk」は、人間や動物が足を使って「歩く」動作を表現する言葉として使われています。

こうして見てくると、「walk」という語の本来の意味は、「速足で歩く」とか「急歩で歩く」ことを意味していたのではなく、むしろ「ゆっくり歩く」とか「のろのろと歩く」ことであったと思われます。ところが今日ではその意味は薄まり、競争を伴うような「競歩」にまで拡大されるに至っています。

 

「競歩競技」が後発となったわけ

しかし、競技としての「競歩」は、「競走」に比べてそれほど古い歴史を持っていた訳ではありません。古代オリエントやギリシャの競技では短距離を中心とした直線を走る「競走」が主体で、「競歩」が行われていた形跡は見当たらないからです。

 

その背景として、運動生理学者たちの研究によれば、「歩く」時の分速が約110m程度のスピード<時速=約6km>では「歩く」より「走る」方が、はるかに少ないエネルギーで目的地に到達できることが知られています。二つには、分速120m<時速=7.2km>以上になると「走る」方が大きな歩幅となり、少ない反復動作で同じ距離を移動できる。<(参考)男子10000m世界レベルの選手は、分速約380m(=時速22.8km>。三つには「競歩」がその行動様式上、「競走」に比べて動きに制限を受けざるを得ない。

こうしたことから、世界各地で行われてきた民俗競技や宗教的儀式に関連する各種の競技には、数百kmを越える超長距離以外に「競歩」の形は用いられず、現実に連絡や伝達の手段として広く行われてきた「競走」が多く採用されてきたのです。

 

「ランニング・フットマン」の登場

既にこの連載(1)でも述べたように、英国では17世紀以降、荘園の領主は地方にある自分の邸宅とロンドンにある別邸の間で、使用人を走らせてメッセージを伝えた。領主自らが議会出席のためロンドンへ移動する際には、身の回りの世話をさせる「ペデストリアン(pedestrian)」または「ランニング・フットマン」と呼ばれる使用人を馬車より一足早く旅館に到着させた。

彼らの採用には面接のほかに走行の能力検査もあり、採用されると高額な報酬で雇用されました。領主同士が「賭け」の対象として長距離を競走(競争)させることがあり、走能力が高ければ良い報酬を得られたのです。彼らは少しでも報酬のよい領主に採用されるようにとトレーニングに励み、各地のレースに出場して健脚を競っていました。

 

「フットマン」たちが「賭け」の対象として公道を競争(歩行)した数々の記録は、当時の領主たちの「日記」や「新聞」に詳しく記載されています。特にロンドンと地方を往復する、数百マイルに及ぶ超長距離を「走った(歩いた)」記録は既に述べた通りです。

 

18世紀以降の「競歩競技」

18世紀の中葉になると、道路の整備、郵便等の通信手段の普及発展で彼らの任務はほとんどなくなりました。職場を失ったフットマンたちはクリケット場などのグランドを使った各地の「賭けレース」にプロ選手として出場するようになります。これらの興業では「競走」だけでなく「競歩」も大会種目に組み込まれました。

観客たちは勝者を的中させて配当金を狙う「賭けレース」に熱中しました。そうなると、レース全体を見渡すことができる短い数マイルのレースに人気が集まるようになり、長距離の道路レースは廃れてクリケット場を使う周回レースへ人気が集まっていきました。

 

しかし、この時代は選手層が薄かったこともあり、どのレースでも勝つ選手が決まってしまうことが多く、「賭けレース」としての興味は次第に薄れていきました。結果として、「誰が勝つかわからない」当時のエリートである学生や、大学を卒業した「アマチュア」による競歩が中心になっていったのです。

(以下次号)

写真図版の説明と出典

①「1880年代、イスリントン⇒ロンドン間の道路を使ったペデストリアン(=プロ選手)によるレースの模様」『Leichtathletik im Geschichtlichen Wandel』(1987)Hajo Bernett著

p22(Hofmann Schorndorf)

②「1895年、Haryy Curtis とBill Sturgessの競歩2人のライバル選手が、道路での4マイル競歩で激突。前者は試合後に失格となった」『The Official Centenary History of The Amateur Athletic Association(英国陸連100年史)』(1979) Peter Lovesey著p136~137 (Longmans, Green, & Co.)

③「1881年、バーミンガムでの7マイル競歩でE.メリル選手(アメリカ)が、突然倒れ、役員関係者が慌てている様子」『The Official Centenary History of The Amateur Athletic Association(英国陸連100年史)』(1979)Peter Lovesey著p134  (Longmans, Green, & Co.)

④「芝生の周回コースのグランドでの競歩競技の様子」

『Atthletics and Football』(1887) Montague Shearman著 p134 (Longmans, Green, & Co.)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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