陸上競技のルーツをさぐる25

リレー競走の歴史<そのⅢ>

「ペン・リレー」以降、「五輪大会」に「リレー種目」が登場してくる過程

1895年の「ペン・リレー」を正式な第1回大会として開催して以降、大会は次第に規模を拡大していきます。2つの大学間や専門学校間の対校(対決)の形式が観衆も巻き込んで人気が沸騰し、次第に米国陸上競技界になくてはならない存在になっていきます。

 

しかし、当初はすべて1マイルを4人で走るものであったため、97年からは1人の走る距離に変化を持たせて4人で2マイルや4マイルを走るリレーを加えました。1915年からは短距離、中距離を走る「メドレー・リレー(寄せ集めの意味)」をも行うようになりました。

 

この「メドレー・リレー」は一人ひとりの担当する距離が異なるため、専門種目が異なっていても各校の陸上競技部員が、同じユニフォームを着てチームとして走ることができました。それが各種目の選手強化につながっただけでなく、種目を超えたチームワークを生み出すのに大きく貢献することになったのです。

 

この大会では1922年以降、短距離の440Yと880Yリレーが加わり、26年になると120Yに10台のハードルを置いて往復する「シャトル・リレー」も導入されました。<(注)この時代のハードルはまだ「逆T字型」のものが主流でした>

 

このようにして発展した大会は米国陸上競技界でもひときわ大きな存在となり、発足して55回を迎えた1950年頃までに3万以上のチーム、延べ11万5千の選手が走り、80回を迎えた75年頃には5万以上のチーム、延べ23万8千の選手が参加したと報告されています。

 

この大会の成功に刺激を受けた他の大学が、これに習ってリレー大会を主催、開催していきました。例えば、今日の米国での2大リレーと言われるもう一つの大会「ドレイク・リレー」は、1910年以降、ドレイク大学とアイオワ州の委員会が共催して開催してきた大会です。こうした米国各地でのリレー大会の繁栄が、今日に続く「陸上王国・米国」を支えていると言っても過言ではないでしょう。

 

五輪大会における「リレー種目」

1896年から始まった「近代五輪大会」では、ペン・リレーなどリレーの盛んになってきた米国の影響を受け、1908年の「第4回ロンドン五輪」から国別対抗の1600mのメドレー・リレー(200・200・400・800m)が「オリンピック・リレー」の名称で登場することになりました。このレースでは米国が800mの金メダリストのシェパード選手を起用し、ドイツに25mもの大差をつけて3分29秒4で優勝しました。

五輪大会に日本から初めて2人の選手が参加した12年「第5回ストックホルム五輪」からは、400mR(4×100m)と1600mR(4×400m)の2種目が行われました。同年に「国際陸連(IAAF)」が創設されて以降、この2種目が世界記録公認種目となって、今日まで広く行われているのです。

 

一方、陸上競技の先輩格の英国では、リレーに限っては後進国でした。五輪での影響を受けて1911年の「全英選手権」にようやく1マイル・メドレー・リレー(800・220・220・440Y)を導入し、26年まで行いました。27年以降は440YRと1マイルRの2種目を実施し、69年以降はすべて「メートル制」とする世界基準に統一され、現在に至っています。

 

北欧の競技会で盛んな「スエーデン・リレー<=1000m>100・200・300・400m)」は対校戦などの種目として行われています。このほか、第二次世界大戦後の全国高校(IH)発足時に採用されて筆者も経験した「800mR(4×200m)」や、「4×800mR」、「4×1500mR」、「3×1000mR」、女子の「3×800mR」等々、発達段階、能力に応じて様々なリレーが世界各地で実施されています。

 

女子の「リレー」

「近代五輪」がアテネで開催されて以来約30年間、男性を中心としたIOC委員たちは、女性には「五輪」の門戸を閉じていました。そこでフランスの熱心な「女性(婦人)参政権獲得運動(suffragette)」の活動家でもあったアリス・ミリア女史が中心となり、「世界女子スポーツ連盟(SFSI)」を創設。21年3月10日にモンテカルロにおいて女性だけの「第1回国際女子陸上競技大会」を開催しました。

 

この大会には、フランス・英国・ノルウエー・イタリア・スイスの5か国が参加しました。実施種目は短距離、ハードル、跳躍、投てき種目のほか、「リレー」は1人が75mを走る「300mR」が行われ、英国が49秒6で優勝しました。

この年の10月30日には英国女子選手団がパリに遠征し、英仏対抗を行いましたが、この時は400YR(4×100Y)のリレーを実施しています。翌22年8月20日には、パリで開催された女性だけの競技会「第1回女子オリンピック大会」では、440YR(4×110Y)が行われました。大会ごとに規則を決めており、「女子リレー」距離がまだ固定されていなかったことが分かります。

 

その後、IOC委員たちがようやく理解を示し、「五輪大会」に女子種目が登場したのは1928年の「第8回アムステルダム五輪」になってからでした。この大会で400mR(4×100m)が採用されて以降、今日に至っていますが、1600mR(4×400m)が登場するには1972年「第20回ミュンヘン五輪」まで待たねばなりませんでした。

(以下次号)

 

写真図版の説明と出典

①「1932年ロス五輪4×100mRで5位に入賞した日本チームの吉岡から南部へのバトンパス<吉岡・南部・阿武・中島(41秒3)>

『オリンピックと日本スポーツ史』(1952)鈴木良徳編、p51(<財>日本体育協会)

②「女子4×100mRが初めて登場した1928年アムステルダム五輪決勝のレース」

『Olympic Cavalcade』(1948)F.A.M.Webster著 p160-161、

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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