陸上競技のルーツをさぐる17

超長距離と「マラソン競走」の歴史<そのⅢ>

「マラソン競走」の誕生以前の状況

アマチュアを中心とした「近代陸上競技」は、英国では1850年代以降、初めはパブリック・スクールで、続いてオックスフォード大やケンブリッジ大などの大学で行われるようになりました。70年以降になると、これらの学校卒業生たちが社会人のクラブを組織して今日につながる各種目のルールを整備し、主体的に運営する大会開催へと発展していった過程はすでに述べてきました。

80年代から90年代にかけて何度も英国に渡り、当時盛んに行われていたアマチュアたちのスポーツの状況をつぶさに視察・体験したのがフランスのP・クーベルタン男爵でした。彼は教育的な立場から「古代オリンピア競技」の魂を入れて復活することにより、世界の若者を一堂に集めて「世界的な一大スポーツ祭典」を開こうと提案。15名の委員を選出して「IOC」を組織し、1896年4月5日にギリシャのアテネで「第1回近代オリンピック大会」を開催したことはあまりにも有名です。

言うまでもなくこの大会では、古代オリンピア競技の中心であった「陸上競技」が近代的な装いとなって最も重要な競技種目とされました。ところが、当時の英国でプロ選手たちの「懸け」の対象となって忘れられていた「超長距離競走」がピックアップされ、ふとした経過で道路を使用するこのレースが大会で採用されることになったのです。

「近代オリンピック大会」と「マラソン競走」

「マラソン競走」が陸上競技のオリンピック大会の種目として採用された経緯について、ここでもう少し詳しく見ていきたいと思います。1896年の「近代オリンピック大会」を復興するにあたり、クーベルタン男爵の周辺には開催の意義を理解し、積極的に運営する人はほとんど存在しませんでした。古代オリンピア大会の母国で開催することになっても、地元ギリシャで経済的、精神的に支援してくれる人も少なく、クーベルタンは様々な困難に直面していました。

こうした状況を打開しようと、男爵はパリ・ソルボンヌ大学の言語学者で歴史家でもあるミッシェル・ブレアル教授の助言を求めました。教授の提案は「マラソンの故事」の古戦場から、伝令のフィディピディスが息絶えたとされるアテネ市公会堂跡<アクロポリスの北麗にある「アゴラ」という名で呼ばれていた市場>までの距離を実測し、新しく始める「オリンピック大会」にこの距離を走る長距離競走を採用してはというものでした。教授は古代競技場で行われていた円盤投や、やり投、レスリングなどとともに「オリンピック大会の呼び物」になるはずだと強調しました。

大会では地元ギリシャのスピルドン・ルイス選手が見事に優勝したこともあり、それまで「オリンピック大会」に無関心だったギリシャ国民を熱狂させました。レースの模様は欧米のみならず世界中に伝えられ、「オリンピック大会」の意義や内容を理解させる上で大きな役割を果たしたことは誰もが知るところです。

マラソンの故事

「マラソン」はギリシャの首都アテネの北東24マイル(=約38・6km)、アッチカの東海岸に位置する幅約3km、長さ8kmにおよぶ平原の名前です。この海岸線の東端には長さ約1.5kmの岬があり、海に面した南側以外の三方は山に囲まれて天然の避難港の役割を果たしています。

この地の名前がなぜ陸上競技の長距離道路競走の種目名として使われるようになったのか、まずここで説明しておきたいと思います。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが書いた「歴史」によれば、紀元前490年に10万ものペルシア軍がギリシャへ侵入しようとエーゲ海を渡ってきました。エトルリアがすでに陥落したとの知らせが首都アテネに伝わった時、劣勢を予想された軍司令官らは、約250km離れたスパルタに援軍を求めるために「伝令を仕事にする健脚家」のフィディピディスを派遣しました。

彼は2昼夜をかけてスパルタに到着し、出兵の要請を伝えました。スパルタの司令官たちはアテネ支援を決めましたが、当時のスパルタの「慣法」が月を基準とした暦だったため、5日後でないと出兵できないことを伝えました。

その間、アテネの軍勢9000人と、支援に駆け付けたプラティーア軍の1000人が、ミルティアディス将軍指揮の下にマラソン平原へ進軍。三方の山に囲まれた地の利を生かして奮戦し、ペルシアの大軍を打ち破ったのでした。

ヘロドトスの書には触れられてはいませんが、フィディピディスはスパルタからマラソンに折り返し、スパルタ軍が直ちに出兵できないことを伝えました。さらに、アテネ軍がペルシア軍を打ち破ったことを元老たちに知らせるため、約40km離れたアテネに向かって走行。到着するなり「喜べ、勝ったぞ!」と告げた後、市民の歓声の中で絶命したと伝えられています。

この名高い故事に因んで行われた「第1回近代オリンピック大会」でのマラソン競走は、1896年4月10日午後2時にスタート。地元ギリシャの牧夫で郵便配達夫でもあった無名のスピルドン・ルイス選手が、途切れることなく沿道を埋め尽くした10万余の地元の人びとの前を走り抜け、競技場で待ち受ける5万人の大観衆の前へフィニッシュ。2時間58分50秒の記録で優勝を果たしました。

競技場を埋めた大観衆は総立ちとなり、興奮したギリシャのコンスタンチヌス皇太子と国王の弟ゲオルグ親王は喜びのあまりゴール地点までの200mをルイス選手と並走。国王も海軍帽を振って喜びを表しました。興奮した女性の観客の中には、身に着けている首飾りを引きちぎってルイス選手に投げ与えたと伝えられています。

(以下次号)

写真図版の説明と出典

① 「1936年ベルリン五輪時に招待され、ギリシャの民族衣装をつけたS・ルイス選手」

『The Olympics 1996-1972』(1972)R.McWhiriter著 P9(Merketing Inv.)

② 「5万人収容の競技場で歓呼に迎えられて、ゴールインする地元のS・ルイス選手(左端には伴走して出迎えるギリシャ皇太子の姿が見える)」

『The Guinness Book of the Athletics Fact & Feats』(1982) Peter Matthews著 P11(Guinness Superlatives Ltd)

③「優勝後仲間たちから祝福を受ける、S・ルイス選手<中央>」

『Die Chronik 100 Jahre Olympische Spiele 1896-1996』(1995) P18 Britta Kruse unter Mitabeit von Armin Mende (Chronik Verlag)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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