陸上競技のルーツをさぐる14

障害物競走とハードル競走の歴史<そのⅦ>

「女子陸上競技」の歴史と女子の「ハードル競技」の発展史

女子の陸上競技が近代陸上競技の各種目としてルール化され、実施されるようになってきた経過や歴史については、各種目の「ルーツ」ごとに述べますが、ここでは世界的な組織が作られてきた経過について概要を述べた後、女子の「ハードル競走」が発展してきた様子について述べていきます。

古代史学者のN・ガーデイナー氏著の『Athletics of the Ancient World』によれば、女子に限定して行われた競技会の形跡は、既に古代ギリシア時代のスパルタの王、リュクルゴスの時代に見出されます。この競技の内容は「短距離競走」に限られ、男性の短距離競走の約5/6(=500オリンピア・フイート=約160.22m)の距離を走るものであったようです。

その後、近世になって世界各地での都市住民の祭りや農民が収穫祭などの祝祭日に集まって行う大会には、必ずと言ってよいほど「競走」種目があり、老若を問わず女子の種目も行われていたようです。しかし、全力で競走する今日の競技会のようなものではなく、町や村の「運動会」的なものであったようです。

19世紀後半になって、「賭け」を伴う男子の長距離の道路競走や広場やグランドを使っての競技会が盛んになると、多くの人が「競走」に関心を示すようになり、女子の競技会も開こうとの機運も高まってきました。

20世紀直前の1896年にP・クーベルタン男爵らが主導して「第1回近代五輪」がアテネで開催されましたが、この頃になると欧米を中心に学校教育も充実し、女子の体育教員養成の師範学校が各国・各地に創設されるとともに、教育制度が整備されました。女子生徒らの通う「女学校」においても女生徒の身体能力の向上を目指し、今日のような形式の「女子競技会」が行われ始めました。

はじめての「女子ハードル競走」

現在と変わらぬ形式の女子陸上競技大会は、記録を見る限り、1895年11月9日、米国ニューヨーク州ポキプシーにある「ヴァッサー校」で行われたのが初めてではないかと言われています。この大会はヴァッサー校の     H.バランタイン先生が中心となって女子生徒たちのために「フィールド・デー」が計画され、100Y・200Y・120YH、走高跳、走幅跳の陸上競技5種目とバスケットの試合を行いました。この日の種目に「ハードル競走」が採用されているところを見ると、これが正式な女子のハードル競走ではないかと思われます。

この日の120YHハードル競走の記録は、予選が24秒75、決勝は25秒0と、今日から見ると必ずしも良いものではありませんでしたが、翌96年の大会では、22秒5に短縮されています。

20世紀になって以降の「女子のハードル競走」

男子の陸上競技会は欧米各国の選手権大会、五輪大会を行うたびに記録的にも、組織的にも、ハードル・クリアランス技術も飛躍的に向上したことはこれまで述べてきた通りです。女子については、男性たちの無理解や「ハードなスポーツに熱中すると優雅さ、女性らしい身体つきを壊し、出産に悪影響を与える・・・」など、今日から見ると大きな偏見や誤解もありました。五輪をはじめ、主なスポーツ種目の世界から締め出され、各国の競技会はむろん、世界の女子が一堂に集まっての競技会などとても考えられない状況でした。

しかし、第一次世界大戦後の1917年、熱心な「婦人参政権論者(suffragette)であったフランスのA・ミリア夫人によって組織された「フランス女子スポーツ連合」の運営による本格的なスポーツ大会がフランスで行われたことを契機に1920年頃にかけて欧米各国の女子スポーツの組織化が図られました。各国内で小規模ながら陸上競技大会が開かれるようにもなりました。

その後、ミリア夫人の献身的な努力で、1921年3月10日にモンテカルロで「国際女子体育・スポーツ大会」がフランス、英国など5か国の参加で開かれましたが、この競技会の中でハードル種目は、80YH(=74mH)、70YH(=63mH)の2種目が行われました。

これに続いて第2回大会が22年4月に同じモンテカルロで開かれ、ここでは65mHが採用されました。世界的な組織に成長した「国際女子スポーツ連盟(FSFI=Federation Sportive Feminine Internationale)」の主催する「第1回女子オリンピック大会」が、同年8月20日、パリのパーシング競技場で行われ、この中で100YH(=91.4m)が種目として実施されました。

今日でこそ当然のことのように男女の種目が行われていますが、五輪大会に女子種目が登場したのは、1928年からです。ハードル競走は32年のロサンゼルス大会になってようやく「80mH」として登場することになりました。この時は、高さ2.5フィート(=76.2cm)のハードル8台を各ハードル間8mに置き、スタートから1台目と8台目からゴールまでを12mで実施しました。

その後、世界的な女性の体位、走能力、跳躍力などの向上もあって、記録の向上は目覚ましく、8mのインターバルでは狭くなり、1968年に「国際陸連」はルール改正を行いました。ハードルの高さは2.75フィート(=83.8cm)とやや高くし、インターバルはスタートから1台目までを13m、中間を8.5m、10台目からゴールまでを10.5m、「距離100m」の種目に衣替えして現在に至っています。

女子の「400mH」は、73年から男子の行っている400mHと同じインターバルに、ハードルの高さはかつての80mHで使っていたものと同じ76.2cmのものを置いて実施。83年の「第1回世界選手権」や84年のロス五輪以降は正式種目として行われています。また、女子の「3000mSC」は1998年から女子の公認種目とされ、2005年のヘルシンキ世界選手権、08年の北京五輪から登場しました。障害物の高さはかつて80mHで使用していたのと同じ高さで、水濠直前の障害物も同じ76.2cmを使用。3000mで28個の障害を飛び越す、女子には相当厳しい競技となっています。

(以下次号)

写真図版の説明と出典

  • 「ヴァッサー校の<フィールド・デー>における、ハードル競走の様子」

『Athletics-A History of Modern Track and Field Athletics(1861-1990)

Man and Women―』(1990) R.Quercetani著 P254

  • 「1922年<女子五輪大会>における、65mハードル競走の様子」

『Athletics of Today for Women; History, Development and Training』F.A.M.Webster著 (1930) F.A.M. Webster著 P26 (Frederic Warne & Co.Led )

  • 「1948年ロンドン五輪で80mHを含む3種目に金メダルを得たF・ブランカー

ス・クン夫人(和蘭)<手前>」

『70 GoldenYears  IAAF1912~1982(国際陸連70周年記念誌)』(1982)

IAAF 事務局編 P44

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岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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