陸上競技のルーツをさぐる22
駅伝競走の歴史<そのⅣ>
東京箱根間往復大学駅伝競走」の計画と開催
今日、全国各地で行われている無数の男女の駅伝競走の中でも、「駅伝」といえば誰もが頭に描くのは関東学生連盟が主催する「箱根駅伝」でしょう。前回までに記してきた500kmを超える東海道五十三次をリレーする「奠都記念驛傳競走」がわが国、いや世界の駅伝競走の第1号であったことは間違いありません。ただ、この駅伝が博覧会の記念事業の色合いが濃かったため、当時から強く人びとの記憶に残った訳ではありません。
これに比べて総距離こそ遠く及ばないものの、3年後の1920年に始められたこの箱根駅伝は、ほぼ100年後の今日でも「駅伝の中の駅伝」とされています。まず、首都東京の中心地から「天下の嶮・箱根」を越え、芦ノ湖までを2日間で往復するという発想の素晴らしさ。時代を超えて若い大学生諸君の情熱とほとばしるエネルギーが引き継がれるレース。第二次世界大戦という暗い時代をも乗り越え継続してきた歴史の重み。「駅伝の中の駅伝」たる由縁でしょう。
この「箱根駅伝」が、1917年に行われた「奠都記念驛傳競走」の大成功が起爆剤となった事は歴史的にも明らかです。ここでは「箱根駅伝」が生まれた背景等について述べることにします。
大戦の影響などで開催できなかった時代がありながら、まもなく100回に及ぶ大会を主催してきた「関東学生陸上競技連盟」は、「日本陸上競技連盟(JAAF)」が創設された1925(大正14)年より6年も前の1919(大正8)年春に創立されています。この年の4月19、20日の両日には、今日の「関東インカレ」の前身である「東京専門学校連合競技大会」第1回大会を東大運動場で開催していました。
この連盟の若きリーダーたちが中心となって「箱根駅伝」を計画し、実施に移していく裏話等は、第1回箱根駅伝の第5区(山登り)経験者だった澤田英一氏(明治大OB)<後の「報知新聞」名古屋・千葉支局長>が、讀賣新聞紙上で「第1回大会の思い出」として語っておられ、第15回大会直前の同紙でも「駅伝座談会」に収められています。『日本列島駅伝史』(島田輝男著・陸上競技社刊P22)には、これら草創期のエピソードがまとめられています。
讀賣の記事からは、この駅伝競走が当時のわが国陸上競技界を支えておられた大先輩たちが、遠大な計画の下に発想・起案して開催に漕ぎ着けたことがわかります。
1919(大正8)年10月、これも第1回大会の「山下り」の経験者、山口六郎次氏(明治大OB)<後に国会議員>が、自らの出身校である埼玉県鴻巣の小学校の運動会に野口源三郎氏(東京高師OB・1920年アントワープ五輪、十種競技出場)、金栗四三氏(東京高師OB・1912、20年五輪マラソン出場)と、上述の澤田氏の3名を審判員として招待しました。
上野駅から鴻巣駅までの車中では、長距離談義に花が咲いたのだそうです。山登り走者だった澤田氏はその年、新潟~東京間の耐寒長距離走を実施。6月15日からは僚友の出口林二郎氏とともに22日間かけ、札幌~東京間約1150kmの踏破を行っていた。金栗氏は夏休みを利用して7月22日から20日間かけ、東京高師後輩の秋葉佑之氏とともに下関~東京間約1200kmの超長距離走を敢行している。2人は「次はどこを走ろうか・・」と話し合い、「満州(今日の中国東北部)~東京」あるいは「米国大陸横断・・」といった極めてスケールの大きい候補地が挙がっていたというのです。
こういう流れの中で、前人未到の「米国大陸横断」を成し遂げようという話がまとまったのです。実施にあたっての資金調達、選手選抜の方法等については、10月下旬、金栗氏の勤務校の東京女子師範(現・御茶ノ水女子大)に早大・慶大・明大・帝大(現・東京大)、東京高師(現・筑波大)等の代表者を招いて協議。その結果、「学生マラソン連盟」を組織することになりました。
資金面では、この種の長距離レースに理解を示していた「報知新聞社」に足を運び、事業部長の煙山二郎氏と企画課長の寺田瑛(本名稔彦)氏の協力を得ることに成功しました。コースは当初、「東京~日光」にする意見が出ましたが、日光では距離が長過ぎるということで、結局「東京~箱根」に落ち着きました。
以後、金栗、東口、寺田の3氏が実地調査を行うとともに、当時小田原中学に勤務していた高師OBで、後年日本陸連の審判部長を務められた渋谷寿光氏の協力もあって開催に向けた準備が進められました。
しかし、厳寒期に「東京~箱根」間を2日間で踏破する事は決めたものの、各校で20km余の距離を走り切れる選手を揃える事は並大抵の事ではなく、最終的に明大、早大、慶大、東京高師の4校の出場で「四大校駅伝」の名で大会が行われたのでした。
大会は、翌1920(大正9)年、当時の「紀元節」である2月11日スタート予定でしたが、東京市電(当時)がストライキを構えていたため、14・15(土日)に変更して、14日の午前中は大学で受講し、午後1時、有楽町の報知新聞社前をスタートしました。この大会は、箱根山中では雪に見舞われる等のハプニングがありながらも、アンカーが、第10区で明大を逆転した東京高師が25秒差をつけて、15時間05分16秒で初回大会の優勝を飾って無事終了しました。
(以下次号)
写真図版の説明と出典
第1回箱根駅伝優勝の東京高師チーム。前列の学生服姿は、大会創設に尽力された金栗四三先輩」『論文「駅伝」』1977年 大田博邦(関西外国語記念論文集)P734