陸上競技のルーツをさぐる52

「砲丸投」の歴史<そのⅥ>

20mの大台に到達した「女子砲丸投」

N・チジョワ(ソ連)が20mの壁を破り、73年8月には記録を21m20にまで高めましたが、この記録の伸びに眉をひそめる一部の人たちもありました。体躯も大きく「筋肉隆々」の女子選手が競技場で活躍することは好ましくないという、「女性蔑視」ともいえる目で見る男性たちの存在でした。

その一例として、米国オハイオ州立大のライ氏の論文(『夏季五輪への女性参加の発展(74年)』)には、52年~72年までIOC会長の職にあったA・ブランデージ氏が、49年に「筋力を使う女子の砲丸投」の競技姿を見て「うんざりした!」と述べたとあります。「これを五輪種目から外して、水泳・テニス・フィギュア・スケート・フェンシングに限って「女性の五輪種目にすべきだ」と主張したことが紹介されているのです。

こうした偏見に負けず、女性たちはその後も積極的に参加した結果、21世紀を迎えて女子種目の時代がやってきます。男子にのみ採用されていた「フルマラソン」をはじめ、「棒高跳」や「ハンマー投」も新種目として加えられ、これに出場する選手が数多く登場。第二次大戦から75年を経て、体格・体力に加えてより高度な技術習得に向けた「あくなき挑戦」が続いています。

「砲丸投」では、88年「ソウル五輪」でも優勝したN・リソフスカヤ(ソ連)が87年6月に出した22m63の世界記録が30年以上破られない状態が続いています。ドーピングとの戦いでもあったこの種目の今後を見守りたいと思います。

 

日本における「女子砲丸投」

わが国における「女子砲丸投」は、世界の歩調に合わせるように1925(大正14)年の「日本選手権大会」で初めて採用されました。25年、26年の2大会は8ポンドの砲丸で実施。27(昭和2)年には「出場者なし」という寂しい時代もありましたが、28年以降は4㎏の砲丸を使って行われ、出場者も増えて記録も徐々に伸びていきます。

初期の記録として残っているのは、当時の万能選手、人見絹枝が29年5月に行われた2度の大会で8ポンドを使って投げた9m97と10m39。26年の規格統一以降は大多よね(女子体専)が4㎏で記録した9m81が公認されています。

人見は30年9月の外国遠征中に9m89と記録を更新しましたが、翌31年には石津光恵(広島山中)がこれを上回って10mの壁を突破(10m14)。当時のやり投の第一人者で36年の「ベルリン五輪」で5位入賞を果たした山本定子(中京高女)が34年に11m寸前(10m98)まで記録を伸ばした後、同年10月には児島文が11mの大台に乗る記録(11m01)を投げました。

 

児島はその後、39年まで都合10度日本記録を更新して12m99まで伸ばし、日本選手権でもこの種目で7連覇(34~40年)の偉業を達成。欧州での国際大会で記録を更新するなど、戦前の女子砲丸投界の第一人者でした。戦後も砲丸・円盤両種目に出場し続け、後輩たちの立派な見本になりました。

 

50年代後半から活躍した小保内聖子が14m台と15m台の扉を開き、70年代には林香代子が16m00まで記録を向上させました。しかし、世界記録を100とするとわが国の選手はずっと80程度で、世界水準は遠いというのが実情です。砲丸投に必須な体格・体力のある選手の発掘が喫緊の課題で、女子柔道・レスリング・重量挙などの競技からいかに人材を確保してくるかもテーマになるでしょう。

(以下次号)

写真の説明と出典

  • 「30年間世界記録を保持しているソウル五輪優勝時のN・リソフスカヤ(ソ連)」

『(雑誌)月刊陸上競技10月号増刊』p104 (1988)(講談社)

  • 「戦前の日本女子砲丸投界に君臨した児島フミ選手の紹介記事<スポーツマン・カリカチュア>」

『(雑誌)陸上競技・新秋特輯號・第11巻9月號(ただを・書と文)』 (1938)p29 (一成社)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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