陸上競技のルーツをさぐる20
駅伝競走の歴史<そのⅡ>
わが国初の「驛傳競走」の開催を企画した時代背景
「讀賣新聞社」が企画したわが国初の協賛事業レースはまだ「名称」はなく、当時の社会部長であった著名な詩人の土岐哀果(本名善麿)氏が中心となって多くの識者の意見を聴取し、「命名」に尽力しました。博覧会の共通テーマが「奠都記念」であったため、「讀賣」では京都から東京の「五十三次」の大規模な「パノラマ」を展示する企画も持っていました。「五十三次をリレーして走る」のはそれと関連した発想ではないかと思われます。
その5年前の1912(明治45)年には、講道館柔道の創始者で当時の東京高等師範学校(現・筑波大)校長、嘉納冶五郎師範に率いられた三島弥彦(東大)・金栗四三(東京高師)の2選手が、日本人として初めてストックホルムでの「第5回五輪」に参加。「スポーツ」や「マラソン」や「五輪」といった新しい潮流が日本に伝わり、後のブームに繋がる動きが起こりつつありました。事実、1915(大正4)年には朝日新聞」が高校野球甲子園大会の前身「全国中等野球大会」を開催しています。
新企画の「マラソン・リレー・レース」が企画倒れに終わることなく、事故なく運営できるかどうかの「実地踏査」が行われたのは、開催予定前年の1916年末のこと。博覧会場に展示するパノラマ作りに向け、踏査には模型製作に当たる商社の加茂氏、背景のパノラマ製作者の五姓田画伯、古老の資格で藤井翁、『道中記』担当の土岐善麿氏の5人が加わった。レースの実施が可能かどうかを判断するのは土岐氏の役目だったそうです。
五姓田画伯の挿絵を添えた土岐善麿氏の道中記は、17年1月9日から2月20日まで20回にわたって「讀賣」紙上に連載されました。
「踏査」を終えた「讀賣」は、2月8・9日に「奠都記念マラソン・リレーの大要」の名の下に「社告」を出し、画期的な「マラソン・リレー」の大綱を大々的にPRしました。『4月28日出發、東海道徒歩大競走。参加選手の歡迎、細則は3月1日發表』と題した記事に次いで、「奠都記念マラソン・リレー!あゝ、何ぞその名稱の新奇にして、計畫の世界的なる!曩(さき)に我が讀賣新聞社が、この一大快擧を主催する旨發表するや、運動界の驚異は言ふまでもなく、天下の期待は我が東京奠都五十年奉祝博覧會の開催と相俟って、陽春四月の花のやうに華やかに・・・」と書き出し、レースは「明治天皇御東幸の御道筋たる東海道五十三次を、京都御發輦(はつれん)の光榮ある記念日、即ち暦三月七日新暦陽春四月二十八日拂暁を期して京都から出發し、數十人の選手が一大徒歩競走に参加するのである」として、「先ず二十四哩マラソン競走の單位を起準とし、東海道五十三次を十五區以上に分割してその分割點に豫め選手を配置し、京都三條大橋の中央より發足した第一區の選手は疾走また疾走、先きを爭って一気に第二區の分割點に至り、そこに待ち受けた自己團体の第二區に一定の記章を渡し・・・(中略)・・晝夜蒹行、翌日の午後東京に入って東海道の起點たる日本橋を過ぎ、上野不忍池畔なる博覧會場内の決勝點に最後の走者が飛び込むといふ順序なのである」として「我がマラソン・リレーの厳正な規定は専門大家によって組織された委員會により十分精査の上來たる三月一日を以て本紙上に發表する筈である。・・・」と示しました。
時代を感じさせるオーバーな表現の「社告」ですが、この文章からわが国初の一大スポーツ・イベントを実行しようとする当時の読売新聞社の迫力が感じられます。当初は各区間の距離として、アテネ五輪の時とほぼ同じ「マラソン」の24マイル(=38.6km)を考えていた事、大会約3カ月前の段階でも大会の正式名称となった「驛傳徒歩競走」の名がまだ決まっていなかった事が伺えます。
正式な競技方法や内容、大会役員、出場選手などの陣容が発表されたのは、「社告」通り、博覧会の開幕が迫った3月1日の事でした。
驛傳徒歩競走大会の命名の経過
諸準備が進められていく過程では、わが国固有の大会にふさわしい名称を付けようと、関係者、とりわけ社会部長の土岐善麿氏は大いに腐心したようです。一連の経過については1955年頃、神奈川県在住の黒田圭助氏が存命中の土岐氏からヒアリングされ、詳しい論文を発表しておられます。
この論文によれば、土岐氏は嘉納治五郎師範と懇意で、当時のスポーツ界、とりわけ陸上競技界にも造詣の深かった神宮皇学館・皇典考究所の所長で「古事類苑」の編集に携わった武田千代三郎氏に相談しています。武田氏は「宿場宿場を伝わって來るのなら、東海道を使うことでもあるし、『驛傳』というのはどうだろうか?『三大実録』に『驛傳貢進』と記され、『楽部式』に『諸国驛傳馬』とあるから・・」という手紙を受け取り、『「ヨシ、これで行こう』と一決した」と記述されています。
こうして決まった「驛傳」の名は、予定通り3月1日の朝刊で「専門家並びに當事者より成る顧問、委員及び幹事は、數回の協議を重ねて精査熟慮苟(いやしくも)せず」の見出しの下、「名稱特定」として「その後種々熟議の結果、その名稱を特定して『奠都記念驛傳徒歩競走』とすることとなったのである」と説明し、今日の「駅伝競走」の繁栄を予測していたかのように、「将来之れと同様形式における競走はすべて之による事となるであろう」と書き、『驛傳』の名称の重みを強調しているのが目を引きます。
(以下次号)
写真図版の説明と出典
①「大会の開催を知らせる『社告』」
『「讀賣新聞」朝刊<1917(大正6)年2月8日号>第5面』
②「正式に『驛傳』の名称を決定した事を知らせる記事」
『「讀賣新聞」朝刊<1917(大正6)年3月1日号>第5面』