陸上競技のルーツをさぐる16

超長距離と「マラソン競走」の歴史<そのⅡ>

バークレー・アラダイス中尉の「超持久走」

数百マイルを走破するF・パウエル選手の「超長距離競走」への挑戦を契機に、英国では19世紀初頭にはこうしたレースが全国各地で行われました。この種の「超耐久レース」の多くは、レースに挑む選手自身が指定した距離を予告時間内で走破したかどうかが「賭け」の対象となりました。予告通りの成績を出せば、選手は当時の一般人が手にすることができない莫大な賞金を獲得しました。新聞の大量発行が始まった時期とも重なったことで、多くの一般市民がレースに関する情報を得て、「賭け」に加わったことも大きな特徴でした。

この「賭け」が最もエスカレートした例として、スコットランド出身のバークレー・アラダイス中尉が挑戦した「持久超耐久走」を挙げることができます。中尉は15歳の頃から各種のレースに出場して勝利し、多くの懸賞金を獲得してきました。中でも有名なレースは1908年6月1日の正午から7月12日の午後3時までの1000時間(=42日間余)の間に、「1時間に1マイルずつ、1マイルのコースを1000回、合計1000時間で走破する」ものでした。彼はこの挑戦に成功し、当時としては途方もない16000ポンドの賞金を獲得したのでした。

このレースの様子は、5年後の1813年にW・トムが著した(図版①参照)『バークレー中尉の偉業』という図書の中に見事に再現されています。同書によると、中尉は昼夜を問わず「1時間に1回、時間が来ると、1マイル(=1609m)のコースを走り(歩き)、残りの時間は、休憩や食事を摂るという方法」で1000回を完遂したのです。各回の天候と、各マイルに要した時間などの「全記録」が詳述されています。6月初め頃の元気のよい昼間には1マイルの所要時間は12分でしたが、7月の深夜になると疲労のためか25分程度を要しています。この1000回に要した正味の延べ時間は296時間でした。

19世紀中葉から後半の長距離競走の様子

バークレー中尉の挑戦、成功に影響を受けた英国内では産業革命が進行中で、ロンドンだけでなくリバプール、マンチェスター、ニューカッスル等の大工業都市に人口が集中し始めていました。以前の「近代陸上競技の誕生」で述べたように、この種の「賭け」を伴う競走熱は厳しい労働環境下にあった多くの労働者たちの疲れや不満を癒す「娯楽」としての「賭博」になっていた。各種レースが行われる道路には、人々が群がったといわれます。

当時を象徴する出来事は1861年12月、ある興行師が「デアー・フット(鹿の足)」の名で走っていた俊足の米国原住民L・ベネットを英国に招いたレースでした。ロンドン・ブロンプトンのグラウンドで、英国の第一人者W・ジャクソン選手と対決させ、その後はケンブリッジに移動して英国皇太子をはじめとする約6000人の観衆の前で競走させたのです。

この種のレースの人気が高まるにつれ、「賭け」はますますエスカレートし、勝者は莫大な賞金を受け取るようになりました。こうなると、「足が自慢の」学生や、学歴のあるアマチュアのビジネスマン層にまで走者が拡大。レースで賞金を稼いでいた「プロ走者」たちの中には、賞金稼ぎの一方でわざと負けてアマチュア選手たちを喜ばせ、裏で金を受け取る者まで現れました。

19世紀後半に入ると、道路を使った一方通行の「賭けレース」が行われましたが、観客からはレースの全貌がわからないので次第に廃れました。その後はすでに述べたように、全体が見渡せるクリケット場や公園広場などを使った「周回コース」でのレースへと変貌していきました。レース結果が出るまでに時間を要する「超長距離競走」は次第に姿を消すのです。中心は「短い距離の競走」に移り、長くても6マイル(=約9650m)程度に短縮されていきました。

しかし、走る前から勝者が決まってしまう短距離走は「賭け」の面白味に欠ける。プロ走者による競走も次第に飽きられ、1860年代後半以降は今日のような競技場を使ったアマチュア中心の陸上競技会に取って代わられたのです。

対照的に、チームゲームの「サッカー」や「ラグビー」は必ず勝つチームが決まっている訳ではない。陸上競技がアマチュア中心の道を歩み始めたのに対し、多くの観客を集めるボールゲームの「プロ競技」がこの頃に成立したのです。百数十年後のスポーツ界の現状を見るにつけ、非常に興味深い事実と言えます。

(以下次号)

写真図版の説明と出典

① 「1マイルを昼夜兼行で1000回走破したB・アラダイス中尉」
『Pedestrianism;or an Account the Performances of Celebrated Pedestrians During the Last and Present Century ; with a Full Narrative of Captain Barclay’s Public and Private Matches; and an Essay of Training. 』(1813)W.Tom著 内紙裏と著書のタイトル・ページ

② 「1861年12月、英国ロンドンのブロンプトンで米国原住民のデアー・フットことルイス・ベネットと英国の長距離走者ウイリアム・ジャクソンが対決興業の様子」
『The Official Centenary History of the AAA(英国陸連100周年記念誌)』(1980)Peter Lovesey著 P17 (Guinness Superlatives Ltd. )

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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