陸上競技のルーツをさぐる8
障害物競走とハードル競走の歴史(そのⅡ)
「乗馬」による楽しみを奪われてきた人びとが、馬に乗る代わりに自分の脚力を使って森や丘を走ることで、王侯貴族が味わった楽しみと同様の経験をしようとして思いついたのが「障害物競走」でした。そして、これを実行したのは当時の学生たちでした。ここでは、「障害物競走」が誕生した頃のエピソードを紹介し、近代陸上競技の種目として導入されてきた歴史や経過を見ていきます。
アマチュアの学生たちによる「クロスカントリー競走」の始まり
19世紀前半からロンドンで発刊されていた『ベルズライフ・イン・ロンドン』という週刊新聞の1838年4月28日号には、6人のバーミンガム大学の「医学部学生」がランニングシャツ、パンツ姿で1マイル(=1609m)の湿原を競走した記事が詳しく掲載されています。この当時、英国各地ではこのようなレースを行っていた人は、あちこちにいたと思われますが、なぜ「医学部学生」が走ったことが、特に取り上げられ、新聞記事として掲載されたのかは、少々気になるところです。
19世紀になると英国では「産業革命」が進み、仕事が分業化・機械化され、工場で働く人も機械操作を単純に繰り返すだけでよくなっただけでなく、企業の経営や管理、販売やサービスに従事する等、直接身体を動かす機会の少ない職業が生まれてきました。
医学部の学生たちは、医学の勉強を通じて他の職業の人たちよりも早く、こうした仕事に従事する人は、身体を動かさないために筋力や持久力が衰え、病気になる人が増える事に気が付き始めました。そこで、自分たち自身が同じような環境にいる事でもあり、率先して健康の維持・増進を図る目的で放課後に学内でジョキングを始めたのです。
そして、練習を重ねていけば誰もがその成果を仲間内の「競走」という形で比べてみたいと思うのが常です。その結果、学外の草原にコースを設定して審判員立会いの下でレースを行うことになったのです。
しかし当時は、「賭け事」を楽しむ人たちのために行われていた「プロ走者」によるレースが英国各地で行われていたため、学校のグランド以外の公園や公道を使って「競走」するのは、一般的に身分が低いとされていた「プロ」の走者だと思われていました。従って、プライドの高い学生たちは本名を名乗らず、「プロ」走者のように「田舎者(Rustic)」、「質屋(The Spouter)」、「おしゃべり小娘(Chit-chat)」などの「匿名(=日本の力士のしこ名)」を敢えて付けて走ったのでした。
こうしたレースが、学外で行われたのは画期的な出来事でしたが、さらにこの風潮を支えていたのが、当時の英国の政治・経済のリーダーや教育指導者たちが描いていた理想像が、「筋肉的キリスト教徒(Muscular Christianity)」であったことも忘れてはならないでしょう。
さて、こうしたレースの様子が、新聞に掲載された後、約10年の歳月が流れた1850年秋、オックスフォードのエクスター校の4~5人の学生が、乗馬による障害物競走を終えて学寮で夕食を共にしている時、「次回は自分たち自身が自分の脚でコースを走る障害物競走をやろうではないか・・」という事になりました。秋も深まったある日、彼らはオックスフォードに近いビンズリーで、2マイル(=約3200m)のコースに24の障害物を設置してレースを行いました。
レースは沼地の農場が選ばれ、24人もの学生が参加しました。学生の大半はスタートすると距離が2マイルもあることを忘れ、短距離競走のようにダッシュしました。たちまち息使いが荒くなり、後半は走るのがやっとのことだったようです。コース中にある「水が溢れ出ているような野原」や小川の土手、柵も高いものでした。ぬかるみに足を取られ、膝近くまであるフラネルのパンツが両足に絡みつきました。全員がヘトヘトになってようやくゴールに辿り着き、この歴史に残る「障害物競走」は幕を閉じたのです。
このレースの様子や面白さがその後、近隣の学校に知れ渡ることになりました。1880年代後半には、英国各地の学校で学外の草原や公園に出て自然の障害物を飛び越えながら走る「クロスカントリー競走」の形式で実施され、学内のクリケット場に競馬で使うような障害物や水濠を設置したレース「障害物競走」も行われるようになりました。こうして「障害物競走」は、当時盛んになって来た他の短距離やフィールド種目とともに陸上競技の重要な種目として組み込まれていきました。
記録によれば、1855年までに校内の陸上競技会を行っていたのは、エクスター校だけでしたが、ケンブリッジではセント・ジョンズ校とエマニュエル校が先導的な役割を果たしました。一方、オックスフォードでは、56年になるとベイリアール校、58年にはマートン校、59年にはクライストチャーチ校が校内大会を開催し始めました。
その後、こうした諸学校間で対校戦が開催されたことが契機となり、57年にはこれらの学校を卒業した学生が進学してくるオ大やケ大でも学内での大会を催すようになり、その中に「障害物競走」が必ずといってもよいほど組み込まれていったのです。
(以下次号)
図版の説明と出典
①「草原での障害物競走の様子」
『Athletics and Football』M.Shearman著 P39 (Longmans, Green and Co.)1887年
②「ずぶぬれの障害物競走の様子」
『Athletics』M.Shearman著 P254(Longmans, Green and Co.)1904年
③「競技場内に設営された水濠」
『①と同上書』P123