COVID-19と身体運動 ポストコロナ時代のスポーツ改革:ランニング改革
伊藤 静夫
1. 新型コロナウイルス(COVID-19)の流行は「パンデミック」ではない
このフレーズは、2020年11月に著名な医学雑誌『Lancet』(ランセット)に掲載された論文タイトルです。新型コロナウィルス感染症(以下、COVID-19)対策といえば、まずはその原因ウィルスの感染経路を断つことだというのが大方の見方でした。しかし、感染症拡大の実態はそれほど単純なものではない、とこの論文は指摘します。COVID-19パンデミックの背景には、ウィルス感染だけでなくさまざまな要素が関与し、それらの複合的相互作用で生じるといいます。その全体像を表現する言葉としてつくられたのが、「シンデミック」です。世界的感染拡大である「パンデミック」と相互作用「シナジー」とを組み合わせた造語です。
今回のCOVID-19に対しても、あるいは今後の新たな感染症に対峙するためにも、まずはこのシンデミックという現象を理解し、そのうえで総合的な対策を講じる必要があるでしょう。
では、COVID-19シンデミックにはどのような要素が関わっているか? 現在、このCOVID-19のシンデミック構造を解明するためにさまざまな角度から精力的に研究が進められています。ウィルス感染以外にも、非感染性の慢性疾患(Non-Communicable Diseases=NCDs ;肥満、高血圧、糖尿病、心臓病、慢性呼吸器疾患など)が関与するほか、疾病ばかりではなく、貧困、経済格差、衛生環境などの社会的要素も劣らず重要であることが指摘されます。そして興味深いのは、その一要素として「運動」の重要性が改めて浮き彫りになっていることです。
健康にとって運動の重要性は広く認められるところですが、反面、世界中で運動不足の人が増え続け健康を害する大きな障壁となっていることも事実です。実は、COVID-19感染症においても、運動不足が感染後の重症化リスク、あるいは死亡リスクを高めていることが多くの統計資料から次々に明らかにされています。
コロナ対策として、あるいはポストコロナの社会を見据えたときに、運動、そしてスポーツの持つ意味を今一度考え直す必要があるでしょう。
2. 運動不足はCOVID-19重症化、死亡リスクを高める
2-1 米医療保険データベースのデータ解析から
かねてよりアメリカスポーツ医学会は、”Exercise is Medicine”(EIM;適度な運動は最良の薬,2007)という構想のもとに、医療に運動を積極的に取り入れる方向性を打ち出しています。アメリカ社会も運動不足が蔓延し、深刻な状況にあるからです。
こうした発想のもとに、例えばアメリカの代表的な医療保険団体カイザーパーマネンテの医療システムでは、2009年から患者の受診時に運動実施状況を「バイタルサイン」として記録し医療に活かしています。
COVID-19災禍に直面して、このカイザー社の医療システムに集積されたデータベースから上記のシンデミック構造解析を試みた研究が行われました。その解析結果は、まさに”Exercise is Medicine”の妥当性を証明するものでした。2020年にCovid-19と診断された成人男女48,440人のデータを解析しましたが、結果は驚くべきものです。運動をほとんどしない「運動不足」グループは活動的なグループ(週に150分以上の運動実施)の2倍の割合で入院し、死亡する確率も約2.5倍高くなっていました。さらに注目すべきは、COVID-19の重症化リスク、死亡リスクを比較したとき、喫煙、肥満、癌、糖尿病、腎臓病など患者の持つ基礎疾患と比べて、運動不足が最大のリスク要因であったことです。
文字通り、”Exercise is Medicine”そのものと言えましょう。
論文名
Sallis R, et al. (2021) Physical inactivity is associated with a higher risk for severe COVID-19 outcomes: a study in 48 440 adult patients. Br J Sports Med.
https://bjsm.bmj.com/content/bjsports/early/2021/04/07/bjsports-2021-104080.full.pdf
2-2 UKバイオバンクのデータ解析から
イギリスも、健康・医療における運動の意義を重視する国の一つです。現在、遺伝子情報を中心に生体情報を集積し、医療や新薬開発に役立てようとするデータベース;「バイオバンク」の開発が世界各国で進められています。なかでも、イギリスのUK-バイオバンクは最も大規模なものとして知られますが、そこに「運動」の要素も取り入れています。運動実施状況として自己申告による歩行速度を記録し、他の生体情報とリンクさせているのです。
イギリスもCOVID-19の甚大な被害を受けましたが、このUK-バイオバンクのデータを利用してCOVID-19感染症の全体像であるシンデミック構造の解析を試みました。対象としたのは41万3千人の登録データであり、このうちCOVID-19の患者は重症患者1,001人、死亡者336人でした。COVID-19のリスク要因として患者の基礎疾患、とくに肥満が注目されていますが、この研究では肥満とともに運動(歩行速度の遅速)にも焦点を当てました。結果は予想外のもので、肥満度よりもむしろ歩行速度の影響の方が大きいというものでした。
肥満でゆっくり歩く人のリスクは最も高く、標準体重で速く歩く人に比べ、重症化のリスクは2.42倍、死亡リスクは3.75倍でした。さらに、標準体重でも歩くのが遅い人の方が、肥満であっても歩くのが速い人よりCOVID-19転帰リスクが高いことがわかりました(図1)。
歩行速度は、体力、サルコペニア(筋量の減少)、フレイル(体重減少による虚弱)など総合的な身体能力を表す指標とみなされています。その歩行速度がCOVID-19のリスクに最も強く影響していたということです。この研究結果から、感染症拡大を単にウィルス感染に止まらず、複合的、相互的なシンデミック現象として捉えた対策を講じる必要性が強く示唆され、なかでも運動、体力、健康の重要性が再認識させられます。
https://www.nature.com/articles/s41366-021-00771-z.pdf
3. 運動はCOVID-19ワクチン接種効果を高める
COVID-19感染症対策として、ワクチン接種による集団免疫の獲得が進められています。ただし、ワクチン接種効果はこれまでの例を見れば、これまたさまざまな要因が関与し、一様ではありません。そして、その要因の中に「運動」が含まれることもこれまでの多くの研究で確かめられています。
今回のCOVID-19ワクチンは極めて短期間に開発され実用化された経緯から、この新しいワクチンに対する運動の効果はまだよく解っていません。しかし、例えばインフルエンザなど従来のワクチン接種に対する運動の効果を検証したこれまでの研究成果をみれば、そこから有益な知見を導くことは可能です。
ワクチン接種の前に行われた運動は、短期の一過性の運動であっても、免疫細胞の応答をより活発にし、ワクチン接種効果を高める可能性が示唆されています。しかし、ワクチン接種効果をより高めるために有効なのは、やはり適度な強度による運動を習慣化することであると考えられています。特に高齢者では、加齢にともなって免疫機能が次第に低下する「免疫老化」は避けられません。当然、免疫老化はワクチン接種の効果を低下させます。これに対して、定期的な運動習慣は、この免疫老化を遅らせることが明らかにされています。したがって、高齢者であっても、適正な運動習慣を持つことでワクチン接種効果をより高めることができると考えられます。運動はワクチン接種効果にも有効であり、感染症予防の観点からもアクティブなライフスタイルの意義を見出すことができます(図2)。
4. 運動はCOVID-19後遺症治療に有効
COVID-19は、未知の感染症であり治療法も確立されていないのが実情です。さらに、急性症状がおさまった後、患者の10〜20%には1ヶ月以上にわたって何らかの症状が続く、いわゆる後遺症(Post-COVID-19 Syndrome)のあることがわかってきました。現在、この後遺症の治療方法も不明ですが、リハビリテーションのプログラムについて種々模索されている状況です。
そのリハビリテーションの有力なプログラムの一つとして、「運動」が注目されています。COVID-19に関してはまだ確実なエビデンスは乏しいのですが、ワクチン接種効果と同様、これまでの知見から判断して大きな期待が寄せられています。図3は、COVID-19後遺症の典型的な臨床症状と、それに対する運動効果の可能性を示したものです。まだ仮説の域を出ませんが、今後の臨床知見が重ねられることによって、臨床適用が可能になるでしょう。
https://pdfs.semanticscholar.org/bcc6/d38333994a32e15aadce8c2803ab098f3271.pdf?_ga=2.15048181.2130155168.1626586193-1098753490.1607817017
実際、イギリスの国防医学リハビリテーションセンターでは、リハビリテーションをはじめスポーツ医学、精神医学、心理学等の各種分野の専門家が集い、この後遺症治療に関するコンセンサスステートメントを作成しました。COVID-19の感染拡大が単にウィルスの感染だけでなく複合的なシンデミック現象と捉え、その治療方法、とりわけ後遺症治療についても多面的、学際的な観点から検討されました(Barker-Davies RM, et al. (2020) The Stanford Hall consensus statement for post-COVID-19 rehabilitation. Br J Sports Med. 54 : 949-959)。
後遺症の治療は緒についた段階ですが、小規模ながら臨床実績も報告され始めています。イギリス、レスター大学病院では運動療法を取り入れたCOVID-19リハビリテーションプログラムを実践しています。COVID-19治療後に、身体的・心理的に支障を感じている患者32名を対象に、週2回の運動トレーニングを含むリハビリテーションプログラムを6週間続けました。
後遺症のある患者が運動をすると、かえって後遺症が悪化するのではないかという懸念もありました。しかし結果は、個人差はみられるものの、ほとんどの患者で運動能力(歩行能力)が改善されるとともに、リハビリテーション前に顕著であった倦怠感も減少していました(図4)。後遺症の改善とともに、プログラムの安全性も確認できたことになります。こうしたエビデンスを積み重ねることによって、患者の症状や特性に合わせたテーラーメードな治療が可能になるでしょう。
そして、ここでも医療と運動(スポーツ)領域との連携が強く求められます。
5. ポストコロナ時代の医療と運動
COVID-19感染拡大は、ウィルス感染という疫学的、病理学的要素だけでなく社会経済的、政治的、心理的要素など多くの要素が複雑に関与する「シンデミック」(シナジー + パンデミック)現象である、と冒頭に述べました。そのシンデミックの構成要素の一つとして「運動」が注目されています。
身体不活動の世界的蔓延が問題視されてから久しくなります。この間、さまざまな提言や対策がとられてきましたが、明確な効果がみられないのが実情です。そこへ、今回のCOVID-19シンデミックが発生しました。米英を中心に疫学調査研究を行ったところ、はからずも運動不足こそが感染後の重症化リスク、死亡リスクを高めるもっとも重要な影響因子であることが明らかになりました。また身体運動は、COVID-19のワクチン接種効果を高め、あるいは後遺症治療に有効であることも盛んに議論されています。
さて、こうした科学的エビデンスが得られたのは、医療保険データ(米)やバイオバンク(英)といった医療・生体情報データベースにあらかじめ運動に関する情報が入力されていたからに他なりません。米英の事例は 、”Exercise is Medicine”の理念が具体化されている証でもあります。残念ながら我が国では、そうした発想に基づくシステムやインフラはまだ不十分と言わなければなりません。
今回のCOVID-19シンデミックの解析から、改めて運動の重要性が浮き彫りになりました。ポストコロナの日本社会を展望すれば、医療と運動を連携させたシステム構築が急務と言えます。
保健医療分野では米国のカイザーパーマネンテ社のシステムを紹介しましたが、中国でも世界有数の「平安保険グループ」がグッドドクターと呼ばれるオンライン診療を中核として、健康データベースを活用した医療・健康指導サービスを実践しています。また、こうした保険医療システムとは別に、GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)のようなテックジャイアントのアプリシステムの参入も考えられます。例えば、Apple Watchでは運動時の心拍応答から最大酸素摂取量が推定でき、個人の体力水準に合わせたテーラーメードな運動処方や健康指導がすでに可能になっています。
我が国では、上述の通り医療と運動の融合モデルが立ち後れていることは否めませんが、そうした融合モデルをめざした取り組みを挙げることはできます(早野忠昭他、Project “JP Vital Life Stream;総合ライフスタイルサポート)。ポストコロナ時代の医療や保健事業にDX(デジタルトランスフォーメーション)戦略の導入が提唱されていますが、そこに「運動」の要素、スポーツとの融合が是非とも必要だと考えます。
6. ポストコロナ時代のスポーツ改革
最後に、ポストコロナの世界観について考えてみます。一日も早くコロナ災禍が終息し日常生活が元に戻ることを、誰もが願っています。その一方で、はたして我々はもとの世界に戻ることができだろうか、という疑念もあるでしょう。 あるいは、元に戻すことがいいのだろうか、という問題提起もあります。
世界経済フォーラム創始者であるクラウス・シュワブは、かねてより利益優先の新自由主義経済を見直し、現在の社会を「グレートリセット」することを提唱していました。1) COVID-19シンデミックは世界に未曾有の深刻な打撃を与えましたが、医療や経済、社会の不平等、国際社会の軋轢など、これまでの世界の諸課題があぶり出されることにもなりました。それ故、いまこそ国際協力の下に「グレートリセット」を追求し、従来の資本主義からステークホルダー中心の新たな健康で持続可能な資本主義社会を築くべきだと主張します。
「グレートリセット」には賛否さまざまな意見や解釈がありますが、ドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエルも哲学の立場から同様の主張をしており興味深いところです。2) 彼は、このCOVID-19シンデミック危機は倫理的進歩をもたらすと述べています。そして、そこから歴史的な意識改革が起こるだろう、と予測します。これまでの利益追求に固執する新自由主義経済から脱却し、経済的価値と倫理的価値が両立する、持続可能な資本主義を標榜するのです。
ガブリエルの主張はやや奇異に感じられるでしょうか? しかし、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一は、日本経済の黎明期において文字通り「倫理と利益の両立」を追求してきた人でした。この精神は、例えばその著書「論語と算盤」でもよく知られるところです。ガブリエルの説く倫理的価値に根ざした持続可能な資本主義モデルは、むしろ日本社会において培われてきた思想だと言っても過言ではないように思われます。
さて、ポストコロナに向けて、はたして世界はグレートリセットへと舵を切るのでしょうか。そのリセットがグレートなものかマイナーなものかは読めません。しかし何の支障もなく、覆水が盆に返ることはないでしょう。変化が起こるとすれば、少しでもよい方向へ向かうことが望ましく、おそらく今後の世界はその方向を希求し、模索して行くのではないでしょうか。さらに付け加えれば、変革の世界観の中核に「倫理」が位置づけられることを想定したいところです。
ひるがえって、スポーツ界では倫理的価値観に根ざした活動は馴染みやすいのではないかとも思われます。否、すでに東京マラソンにおけるチャリティ事業、ボランティア活動、自治体と連携した社会貢献事業などは、正にそうした倫理的な価値観に裏打ちされた活動・事業に他なりません。
ポストコロナの2022年以降、人々は新たな世界観、人生観を問い直すことになるでしょう。そこには、倫理観とともに健康観も大きなテーマとして含まれます。新たな健康観、そして身体運動やスポーツのあり方を改めて考え直す機会にもなります。スポーツ界は、そうした理念に基づくシステムづくりや環境づくりの中心的な役割を担うべきでしょう。そのとき、スポーツ界にも意識改革が問われます。体育やスポーツの分野でも、従来の自然科学偏重、パフォーマンス中心主義を見直し、健康観、倫理観という視点をより重視しなければならないと考えます。とりわけランニングイベントは、ワールドマラソンメジャーズを筆頭に世界的な連帯のもとに、文字通りフロントランナーとしてこのムーブメントを先導して行くことが期待されます。
1) クラウス・シュワブ (2020) グレート・リセット ダボス会議で語られるアフターコロナの世界. 日経ナショナルジオグラフィック社.
2) マルクス・ガブリエル (2021) つながり過ぎた世界の先に. PHP研究所.