「オンライン応援」で全国から声援

無観客での開催だったため、OB・OG会ではzoomによる「オンライン応援」を実施。北は北海道から南は鹿児島まで延べ40人の方がネットを通じてワイワイガヤガヤ、常時30人前後がテレビ中継と「ユーチューブ」、データ放送を駆使して後輩たちに声援を送りました。

残念な結果発表となりましたが、最高齢の田中良子さん(1959年卒)が後輩たちのこれからに期待をかけると熱弁をふるい、原田隆康さん(1981年卒)は北海道支部から力強い支援のメッセージ。東京マラソン財団の伊藤静夫理事長(1972年卒:3回出場:-、7区、6区、1区)は延期になった東京マラソンの事情を報告し、鹿児島陸協理事長の山方博文さん(1973卒・箱根4回出場:3区、3区、2区、2区)は2023年に延期となった鹿児島国体への来訪を呼び掛けました。

1972年大会で山方さんからタスキを受けた和歌山の吉田公彦さん(1975年卒:2回出場:3区、-、6区、-)は、1975年大会で1区の区間賞を獲得した片山茂さんとのライバル話を披露。他に箱根4回出場の岡田一彦さん(1970年卒:1区、1区、7区、1区)、1983年卒の合田浩二さん(1区、10区、9区、2区)や、1978年卒の高井卓勇さん(3回出場:3区、1区、-、2区)も参加しました。

ちなみに、スタートの号砲を撃った関東学連の有吉正博会長(1970年卒:9区、5区、2区、2区)も4回出場の名選手で、1989年卒の弘山勉監督も4回出場(8区、9区、2区、2区)選手。

 

渋谷俊浩(1985年卒)びわこ成蹊スポーツ大教授からのメッセージ

オンライン応援に参加したかったのですが、入試業務のため叶いませんでした。申し訳ありません。結果を知ったのは、母校のゴール4時間後でした。

「10位専修大学と18秒差の11位」。残念でなりません。力を尽くした10人の選手、スタッフ・関係者の気持ちを慮ると言葉がありません。

思い起こせば1984年の第60回大会、9区を終わってシード圏外で苦戦していたチームを最終10区で西尾剛浩先輩(故人)が逆転。わずか「7秒差」で9位(当時は9位までがシード)に滑り込んだのでした。偶然にも、「7秒差」で涙をのんだその相手が専修大学でした。

200㎞・11時間を超える駅伝におけるわずか「7秒」です。「天国と地獄!?」。恐ろしいほどの勝負の過酷さを味わいました。

今日から、また試練・鍛錬の日々が始まるのでしょう。後輩の皆さんの絶えることのない「闘走」を期待し、応援し続けたいと思います。

 

(注)渋谷さんは1年生から1区(6位)を務め、2年で4区(4位)、3年で2区(4位)と安定した走りを続け、4年時には2区で区間賞を獲得した筑波史上屈指の名ランナー。1988年の福岡国際マラソンでは当時の世界記録保持者、べライン・デンシモ(エチオピア)を破って2時間11分04秒で優勝したレースはマラソン界に衝撃を与えました。