川野博康さん(1964年卒)との思いで

京都の中核として力量を発揮 全国の大舞台仕切った川野君

1961年卒 岡尾惠市(立命館大学名誉教授)

2020年4月11日夕刻、京都陸協・高体連の選手強化や組織作りでともに汗を流した後輩で、良き仲間だった川野博康君が78歳で泉下に旅立った。

もう60年も前のことになる。ローマ五輪を前にした1960年4月、都立駒場高の名指導者、竹村先生の薫陶を受けた川野君が入学してきた。インターハイ110mジュニア障害2連覇の輝かしい実績を持つ君を、前主事の宮丸先輩らが熱心に勧誘。主事としてバトンを受けて迎えた私は、高師時代から伝統ある障害パートに心強い味方が加わってくれたとの強烈な記憶がある。

岡尾さん(手前)と競り合う川野さん

 

在学中は腰痛などもあってインカレでは必ずしも満足な記録・入賞など達成できず、もどかしい気持ちで過ごしたのではと推察するが、本領発揮は卒業後だった。

東京五輪を迎えた64年4月、生粋の東京育ちの川野君を私は再び、同志社高校教員として地元で迎えることになる。生粋の東京育ちで、京都の水に馴染むのは簡単ではなかったはずだが、持ち前の明るさと行動力で着実に新天地での信頼を築いていった。仲間や教え子らの支援も受けながら京都陸協では強化部長として頭角を現し、近畿では若い時代から「京都に川野あり」とその名がとどろいた。

この間、京都は全国レベルのレースを次々に迎える。大阪で開催されていた「全国高校駅伝」が66年に京都へ移り、川野君は事務局の中心メンバーとして力を発揮。同じ都大路を走る「全国女子駅伝」が83年に始まると、京都の中核としてその力量を大いに発揮した。今も続く2大レースを見事に仕切り、約10年の京都陸協副理事長を経て2007年に理事長に就任。12年までの6年間、期待通りに大役を務め上げ、13年には副会長に推されて4年間、重責を担ってくれた。戦後の京都陸協で最重要の人物の一人とたたえられている。

川野さん

永年にわたる陸上競技と京都スポーツ界への貢献に対し、1981年に日本陸連から平沼亮三章、1991年には秩父宮章が授与された。1997年には京都府からスポーツ功労賞、2000年にも京都府スポーツ協会から功労賞と数多くの栄章・表彰が贈られた。

高齢化の進む昨今では少し早すぎる旅立ちと惜しまれるが、天空で大好きな熱燗でも嗜みながら、当方らの到着を待ってほしいと願う。合掌。

2020年4月14日京都新聞(川野氏逝去記事B)

2020年6月4日京都新聞夕刊